世界という他者への希望的観測を抑止するために宗教は自己訓育を行い、武士は「武士道」を、ストア派は「災厄の予期」を実践してきた。それは、ありふれた現実である逆境に対する物語や語りの転換とも言える。われわれが逆境と捉えるのは、事柄や状況それ自体ではなく、それに対する思いであるからだ。(全10話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●希望的観測から離れるための「修行」
五十嵐 順境も逆境も幻想であって、世界は私とは関係のない原理により、私とは関係のないところで動いている、私とは関係のないもの、まさにカミである。私はそれを「どうこうできる」と思って操作しようとするんだけど、それは単なる思い込みで、できるときがあるかもしれないけど、ほぼできない。それが第三者から見た現実であるということですか。
板東 うん。
津崎 と同時に、さっきの繰り返しになるような気がするんだけれども、逆境こそが当たり前だというのは、結局24時間365日、実は大小さまざまな逆境の積み重ねである。そうすると、そのときに考えたいのが、逆境が当たり前で順境のほうが幻想だとした場合、僕たちは幻想のほうに引き寄せられて、そちらにばかり注目するわけだ。
だからこそ、当たり前であるはずの逆境が、当たり前よろしく自分の前に立ちはだかってきたときに、それを忘却している私たちは、それゆえたじろいでしまうわけだよね。そうならないための備え、訓練、あるいは修行といったものは、東洋思想の中でどういうふうに考えられてきたんだろうか。あるいは仏教でもかまわないんだけれども。
板東 仏教の場合は、あらゆる修行が基本的に自己訓育というかたちで、希望的観測をやめるように(仕向ける)。どっちかというとそれはわれわれの意識よりは体にしみついているものだから、それを日常の行為とは違う仕方の「修行」というもので解除していくっていうことになるんでしょうかね。
あと、『葉隠』や『武士道』だと、よく死のイメージトレーニングをしておけっていう。自分の家を「いってきます」と言って出ていくときに、多くの人はその後、夜には仕事から帰ってくると思っているが、そんな保証は当然どこにもない。だから、それっきり帰ってこない、家族とは永遠の別れになるというところまで毎日イメージトレーニングをしておけということが、武士道の中にはあります。われわれが幻想としての順境にすがりたくなることに抗するためのトレーニングをずっとやれ、というようなこともあるんじゃないでしょうか。
●災厄の予期と武士道に通じる「メメント・モリ」
津崎 今の話を聞いていて、私は東洋のことは専門家じゃないからまったく同じかどうかはなかなか言えないんだけれども、さっき少し具体的に話した古代ギリシア・ローマの...