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この流れをさらに引き寄せるためにも、日本はもう少し我慢して、万里の長城の外側、つまり満洲国のみで自重するべきだったと私は思う。
ところが三月事件以来のクーデター事件を見ても、陸軍は身内を罰することには消極的で、ようやく首謀者たちを厳罰に処したのは二・二六事件で天皇陛下の怒りに触れてからである。満洲事変で功績を上げた人はなおさら罰するわけがなく、そのチャンピオンともいえる存在が、石原莞爾にほかならなった。
石原莞爾は、満洲事変のあと、どんどん出世していった。たしかに、満洲事変で勝利を収め、満洲国の建国を推進したのは大きな功績ではあった。二・二六事件にも反対で、皇道派でもなかったから、その点もよかったのかもしれない。
しかし、当時の幣原外交がいかに悪かったとはいえ、石原の行動が憲政の本義に外れていたことは否定できない事実であり、また、軍の統制を乱していたことも間違いない。そういう人物を現職に置き続けたことで、軍中央はかえって出先の部隊を抑える力を失ったのである。
軍においても政府においても、やはり統制が重要である。統制が利かなくなれば急進派の暴走は止められない。三月事件以降、軍部でクーデターが頻発したが、それは軍の統制を乱した者たちを罰してこなかったことの結果である。二・二六事件でようやく首謀者たちを、死刑をはじめとする厳罰に処したが、あまりにも遅きに失していた。
満洲についても同じだ。最終的にはシナ人も、万里の長城の向こう側にある満洲まではなんとか我慢したと思う。だが、万里の長城の内側に自治政府をつくろうというのは無理な話だ。
石原莞爾自身も、そのことはわかっていた。たしかに彼も満洲事変の頃までは、シナ本土への進出も視野に入れていたふしがあった。だがソ連が軍事的にも政治謀略的にも満洲・シナ方面に積極的に乗り出してきている情勢を受けて、考えを変えていく。対ソ戦略を考える場合、英米と敵対関係になったら絶対に不利になる。しかし、もし日本がシナ本土に手を伸ばしたら、シナに多大な関心を抱いている英米両国は必然的に敵となってしまう。それは避けねばならないと考えたのである。また、シナで国民党政権による統一政策が軌道に乗り始めていること、反日的気運がさらに上昇しつつあることなどを受けて、むしろ石原はアジアの諸国を糾合する「東亜連盟」的な構想を抱くようになっていく。
しかし、普通の軍人たちには、石原のような天才的な戦略家の大構想はなかなか理解できるものではない。むしろ、もっと短期的な視点で、満洲国を安定化させ、総力戦体制を整えるために、資源がある北支(シナ北部)を押さえなくてはならないと考えたのである。
石原は昭和10年(1953)8月に参謀本部作戦課長に、翌昭和11年(1936)6月に参謀本部戦争指導課長になる。一方、陸軍は「華北分離工作」を進めて、河北・山東・山西・綏遠・チャハルの華北五省を日本の影響力の強い半独立地域にして、「半満洲国」のような地帯にすることを構想し、昭和10年12月に河北省に冀東防共自治政府が設立される。
石原莞爾は、こうした動きを止めようとした。だが、皮肉なことに満洲事変の立役者である彼を出世させたことで、そのような石原の動きは、はなはだ説得力のないものにしかならなかった。石原莞爾が反対すると、華北分断工作を進めようとしていた後輩の武藤章が、「われわれは石原閣下が満洲事変でやったのと同じことをしようとしているだけです」と突き放したという話が伝わっている。


