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第一次安倍政権の頃に、「日中歴史共同研究委員会」と称して、日本とシナの学者たちがいわゆる歴史問題について話し合う会合が行なわれているが、日本では南京問題を研究した人は一人も入っていない。私は日本側の座長だった北岡伸一氏とも一緒に議論をしたことがあるが、彼が南京問題を真剣に研究していたとはとても思えない。
そういう人が日本側の座長だったのだから、人選が間違っているといわざるをえない。そのため「日中歴史共同研究委員会」では、日本の学者がなんとなく向こうの学者と会って話し合い、「日本が悪うございました」というような結果になった。だから、とくに国家間で見解の異なる問題を話し合う場合、そこに送り出す人を選ぶ側である外務省や文部省の役人によほど勉強してもらわないと困るのだ。
実際、シナ人たちが「南京屠殺」と呼んでいる南京事件で、巻き込まれた人はいるかもしれないが、市民の虐殺は事実上限りなくゼロに近かったのである。殺された大半は、南京陥落の折に、軍服を脱ぎ、一般市民に紛れ込んだいわゆるシナの「便衣兵」であった。便衣兵とは、民間人に偽装した兵隊のことである。国際法上でいえば、きちんと軍服を着て、軍人とわかるかたちで降伏しなければならない。しかし南京攻略戦のときは、南京防衛軍の唐生智司令官が撤退命令を徹底させないまま退却してしまったので、軍紀の乱れたシナ軍の兵士たちは勝手に軍服を脱いで市民に紛れ込んでしまったのである。それまでも便衣兵からの攻撃を受けていた日本軍は、投降しない便衣兵を処断する必要があった。そして、便衣兵を処刑することは、国際法上、捕虜虐待などの咎にはならないのである。
だいいち、先ほども少し述べたが、仮に南京で大虐殺があったなら、汪兆銘は南京政府をつくることができなかっただろう。いってみればそれは、虐殺が行なわれたアウシュヴィッツなどの地に、虐殺を主導した人々が新しい政府を打ち立てられるか否か、という問いと同じである。もし、本当に30万人もの人々を大虐殺するような事件があったなら、そんな大虐殺の跡地に、シナ人たちが「汪偽政府」や「汪偽国民政府」と呼んでいる親日政権を設立することを、民衆が許すはずがない。
汪兆銘は中国国民党左派のリーダーで、蔣介石とは対立もしたが、ともに孫文の弟子で、愛国心については一点の曇りもない。その彼が、このままでは中国のために良くない、しっかりした政府をつくって交渉しなければならないと考えて南京に新政権を打ち立てたのだ。それほどの人物が、南京を首都とすることもなかっただろう。
南京の城内はそう広いものではなく、中国の学者でも最近、30万人の犠牲者という数字は南京だけでは説明できないという人がいるほどだ。日本側としては、そういう矛盾をうまく突いていく必要があるのだが、別の中国人学者は、日本軍が上海から南京まで部隊を進めた過程も全部含めて30万人だと、話をずいぶん広げてきている。戦場での殺傷は虐殺とはいえないから「グレーター南京」の死傷者数を問題にすべきだと主張している人もいるわけだが、それらはすべて「三十万人」という数字を正当化するための後付けであることはわかりきっている。
戦時国際法上大きな問題になるのは、無抵抗な市民をどれだけ殺したかである。日本軍が南京に攻め込んだとき、中支那方面軍司令官の松井石根大将が南京にオープン・シティを勧告したにもかかわらず、シナ軍は無視した。オープン・シティにしなければ市街戦になるのは明らかだから、向こうの責任が大きい。しかも蔣介石と宋美齢は12月7日に、シナ軍の唐生智司令官は日本軍の南京占領(昭和12年〈1937〉12月13日)の前日に南京を脱出してしまった。


