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だが、実は日本がロシアから得た満洲の権益の内実は不安定なものだった。いずれもロシアが清国と結んだ協定を、両国の了承のもとに引き継いだものだが、その協定では大連や旅順が含まれる関東州の租借期間はわずか25年であり、東清鉄道の権益は、開通後36年で清国が買い戻せることになっていた。租借は大正12年(1923)に、鉄道は昭和8年(1933)前後には、期限を迎えることになっていたのである。
その後、明治44年(1911)に辛亥革命が起こり、シナでは中華民国が生まれ、やがて袁世凱が大総統の地位に就く。日本は袁世凱に突きつけた対支二十一カ条(大正4年〈1915〉)──このうち最後の五カ条は撤去──で、99年の期間延長を認めさせ、一息ついた。
だが、ロシアにソビエト連邦が誕生して左翼思想で反日運動を煽動し、また、アメリカが引き続きシナへの参入を強く求めたことが、日本を新たな窮地に陥れていくことになる。
ソ連のスターリンが、東アジアの主敵である日本を打倒するために「中国革命」を利用した話は第一章で紹介した通りだ。ソ連は、国民党にも中国共産党にも援助をし、両者を国共合作で合同させようと画策する。そして民族主義を鼓吹し、中国人民の敵愾心を日本に向けて、各地で深刻な反日運動を展開させていった。
そして、民族主義を鼓吹したのはアメリカも同じだった。第一次大戦後にアメリカが訴えた「民族自決権」という考え方が、大きな影響を与えたのである。
「民族自決」とは本来、第一次大戦終盤にアメリカのウィルソン大統領が議会に対する教書の中で、講和の原則の一つとして示したものである。あくまで第一次世界大戦の戦場となったヨーロッパ、とくに当時のオーストリア=ハンガリー帝国などの支配下にあった各民族に対し、政治体制や帰属を自ら決定する権利を持つ、としたのが、ウィルソン大統領が唱えた民族自決権であった。
そもそも、イギリスがインドをはじめとする植民地を、民族自決権に基づき独立させるはずはないし、アメリカもフィリピン、ハワイに対して民族自決権を認めるわけがない。民族自決権といえば非常にきれいに聞こえるが、実は、それはハプスブルク家が統治していた東ヨーロッパから中央ヨーロッパにかけての複雑な民族関係に限られていたのだ。
だが、そんなアメリカの本来の思惑を超えて、「民族自決」の考え方は西洋の植民地主義の圧制下にあった植民地の人々の胸を捉えることになる。列強に蚕食されていた中国でも、その気運は一気に高まった。
しかも、民族自決権をシナに吹き込む先導役になったアメリカ人たちがいた。無数のプロテスタント教会の牧師たちである。
きわめて善意に解釈すれば、西洋列強や日本人が威張っている中で、シナ人たちは非常にかわいそうな状況にあると考え、彼らなりに義憤にかられたのだろう。ただし中には、白人が威張ることには怒りを覚えないのに、日本人が威張ることは許せないと思う人たちもいたかもしれない。そういうことがあったとしても、人種差別が当たり前の時代だから、当然といえば当然であった。
いずれにしても、こうした民族自決権という考え方が、対支二十一カ条で怒りを抱いたシナの若者たちに火をつけた。加えて、コミンテルンの過激な煽動によって、排日運動はどんどん激化していく。それがシナ本土だけならまだしも、満洲でも起こってくるから、なおさら日本も引けなくなった。
先にも述べたように、満洲は清朝時代は「Noman’s Land(主のいない土地)」という言葉通りの不毛の地で、「禁封の地」と呼ばれて漢人の入植が禁じられていた。その後、ロシアの占領地区となり、日本が日清・日露戦争で多くの血を流した土地となった。
日露戦争のときには、戦場が清国になるので、日本はまじめに清国に対して「戦場になりますが、中立を守ってください」などと申し入れた。だが、その清国は、ロシアと密約を結んでいて、「日本と戦争になった場合、露清両国は相互に援助する」などということを取り決めていた。この密約があったことが発覚したのは大正11年(1922)のことであったが、何のことはない。こんな取り決めがあったのなら、日露戦争で日本がロシアに 勝った時点で、日本が満洲を獲得しても文句はいえない状況だったのである。
しかも日本が満洲を獲得すると、日本は満洲に治安の安定と繁栄をもたらすことになる。辛亥革命(明治44年〈1911〉)の頃に千八百万人であった満洲の人口が、わずか20年後の満洲事変の頃(昭和6年〈1931〉)には3千万人になっていた。当時、シナ本土は軍閥が割拠していたから、戦乱を逃れて多くの人々が、日本のおかげで治安が良くなった満洲に押し寄せてきたのであった。


