≪全文≫
日本もただ手をこまねいていたのではない。大正2年(1913)には、当時の辛亥革命(第二革命)の状況を見て、日本の三大財閥の一角だった三井は、日本政府とも連携をしつつ、満洲を買収する交渉を行なっている。だがこれは、交渉相手の孫文が第二革命の失敗で日本に亡命したため、実現しなかった。
その後、中華民国は軍閥割拠の状況になるが、孫文の死後、国民政府を掌握した蔣介石が「北伐」を行ない、国民党が根拠地としていた広州から南京、上海、北京へと攻め上って中国統一に成功すると(大正15年〈1926〉~昭和3年〈1928〉)、今度は国民政府の外交部長の王正廷が「革命外交」を唱え出す。「中国は革命に成功したのだから、これまで結んできた一切の不平等条約を廃止できる」とする外交方針であった。明治維新後も、不平等条約改正のためにまじめに努力を重ねてきた日本からすれば、まったくとんでもない話であった。
このような状況下で日本の外務大臣を務めていたのが幣原喜重郎であった。幣原は大正10年(1921)から始まったワシントン会議で外務次官として全権を務めたあと、加藤高明内閣(大正13年〈1924〉6月~大正15年〈1926〉1月)で外相に初就任。以来、第二次若槻礼次郎内閣(昭和6年〈1931〉4月~12月)までの多くの期間、外務大臣を務めていた。
幣原外交は、先にも述べたように、ひたすら協調外交であった。もちろん、そのような外交を支えたものとして、ヨーロッパ大戦後に平和謳歌が国民全体の気分になっていたことや、「日本が世界の五大国の一つになった」という喜びがあったことは確かである。そういう世論の支持のもとに政党政治があり、幣原外交もあった。
ところが、大正11年(1922)に成立したソ連が、国境を越えて国際共産主義運動を展開し始める。また日本人は当初、ワシントン条約(大正10年〈1921〉)やロンドン海軍軍縮条約(昭和5年〈1930〉)について、軍備を縮小し平和の理念を実現するのは良いことだと歓迎していたが、実はそれはアメリカが平和の名のもとに日本を抑えつけるための方便だったということが、だんだんと明らかになってきた。そういう中で、幣原外交に対する不信が広がっていったのである。
結局のところ、協調とは聞こえがいいが、その実態は日英同盟の廃止をはじめ、問題だらけの外交でし...


