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しかし、どう考えても満洲国の建国は、偏見を交えずにいえば、十分に大義名分が立つ行為だった。そもそも、紫禁城から追われた溥儀が軍閥・憑玉祥の部隊に追われる恐れが生じたため、家庭教師のレジナルド・ジョンストンとともに日本公使館に逃げ込んだことが、この満洲国建国の発端にはある。だから満洲国は、満洲族の出身である清朝最後の皇帝・溥儀が故郷に戻ってつくったということを、もっと広めていけばよかったのである。そもそも、清朝の皇帝が自分の郷里に帰り、国をつくってどこが悪いのかということなのだ。
ところが松岡洋右首席全権が国際連盟総会で行なった演説をざっと見る限り、その点を強調した箇所は見当たらない。彼は若い頃アメリカにいたので、東洋の歴史には詳しくなかったかもしれない。詳しくなくても構わないのだが、せめて勉強はしておくべきではあった。
さらにいえば満洲事変の立役者である石原莞爾と胸襟を開いて話し合い、情報を共有していれば、国際連盟における松岡首席全権の答弁と満洲における軍の動きの平仄が合い、信憑性が高まっていただろう。政府(外務省)と派遣軍(関東軍)は、二つの別の国のように別々に動いていたのである。意思の疎通がまったくないために、国際連盟での答弁とは異なることが現実には起きていた。その意味で、国際連盟における答弁や演説は、シナの専門家が同行して補助するべきだった。
それこそ石原莞爾ならば、日本の満洲政策をきちんと説明できたに違いない。戦後、石原莞爾は、山形県酒田市の酒田商工会議所で開かれた東京裁判の臨時法廷に呼ばれたが、当時病を得ていたにもかかわらず絶対の自信があり、あたかも東京から来た検事が嘲笑されていたような雰囲気さえあった。
明治の頃なら、彼を辞めさせて外交官にするということもできたかもしれない。だが、昭和になると組織や規則が確立されてしまったから、そういう勝手なこともできなかった。
石原莞爾のことは、また少し後で触れるとして、ここで国際社会における日本の主張の下手さという問題点を指摘したい。というのも、日本が自らの立場を強く主張しないのは、いまでも同じだからである。
たとえばシナは尖閣諸島について、「明代には中国側の冊封使によって既に発見・認知されており、中国の海上防衛区域に含まれた台湾の附属島嶼であった」(外務省ホームページ)と主張している。だが「国際法上、島を発見したり、地理的な近接性があることのみでは、領有権の主張を裏付けることにはな」(同右)らないのであり、シナ側が「証拠」としている歴史的文献や地図には、尖閣諸島が明や清に属していたことを証明する記述は一切ないのである。
ちなみに日本は、明治18年(1885)以降、沖縄県当局を通じての方法などにより、現地調査を重ね、尖閣諸島が無人島であるだけでなく、清国を含むどの国の支配も及んだことがないことを確認したうえで、沖縄県に編入した。
それゆえ100%ありえないことだが、仮に、尖閣諸島が清朝の支配下にあったとしても、現在のシナ人とはまったく関係ない話だ。
同様に、清朝は満洲人が建てたのであって、現在のシナ人の国家ではないということを、もっと宣伝すべきだと私は思う。外務省の高官とこの点について話したことがあったが、「清」と「中国」が別の民族の国家という考えは外交では使われていないらしかった。
加えていうと、第一章でも指摘したように、戦後にシナ人たちが満洲を自国の領土にしたとき、満洲人はほとんど絶滅させられている。アメリカも「日本は満洲を侵略した」と主張したが、戦後にシナ人たちが満洲人をほぼ絶滅させたにもかかわらず、それを人権問題として取り上げることはしなかった。同じく、中華人民共和国が成立後にシナ人たちが行なった、チベット侵攻やウイグル侵攻を批判しているにもかかわらず、である。
だから私は、日本がこれから歴史戦を戦っていくうえで、満洲をうまく使っていくべきではないかと思う。


