実は正義の人だった?明智光秀ってどんな武将?
言わずと知れた、戦国の風雲児・織田信長。今でも、日本の歴史上の好きな人物ランキングなどで、必ず名前のあがる武将です。天下人としても知られていますが、信長は天下統一を目前に、1582年の6月2日、本能寺の変で急死しました。
信長を襲い、亡き者にしたのは、織田政権の中核を担っていた腹心・明智光秀。英雄的に語られる信長に対して、主君を暗殺した明智光秀は、「裏切り者」として歴史にその名を残すことになったのです。
そんな光秀ですが、2020年には大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公として取り上げられるなど、「裏切り者」ではない光秀の素顔に注目が集まっています。光秀とは、いったいどんな武将だったのでしょうか?
一方、信長は出身国の尾張国(今の愛知県)を統一し、美濃国(今の岐阜県)を手に入れ、いよいよ京に上ろうと力を蓄えていました。ときの室町幕府将軍・足利義昭は、下克上によって京から追われ、越前の朝倉義景のもとに身を寄せつつ、京に帰るチャンスを狙っている状態。つまり、信長と義昭の利害が一致していたのです。この2人の架け橋として活躍したのが、ほかでもない、光秀でした。
これをきっかけに、信長と光秀は接近。ほどなく、信長と将軍・義昭は争い合う関係となってしまいますが、光秀は信長の家臣となり、天下統一に力を貸すようになります。
人生50年といわれた時代に、光秀が信長と出会ったのは40歳を過ぎたころ。つまり、光秀は大器晩成の武将といって過言ではありません。
やがて光秀は、それまでの功績を認められ、丹波国(今の京都府亀岡市周辺)を与えられ、一国一城の主となります。治水をしたり、人々を苦しめる借金を取り消したり、光秀は自身の信じる正義と道徳に従った統治を行い、地元の人々に愛されるお殿様になりました。また、愛妻家としても知られ、妻である煕子意外に側室を持たなかったともいい、女性関係にもクリーンだったといいます。
接待の席での失態を責められ、信長に足蹴にされたことが理由になったという説。信長と政治的な対立があったという説。朝廷や、秀吉が背後にいたなどの陰謀説、黒幕説などが有名です。しかし一方で、信長に謀反を起こした家臣は、光秀がはじめてではありませんでした。信長は、前代未聞の天下統一をまえに、さまざまな改革を進め、それについていけなくなる家臣もたくさんいたのです。けれど、織田家はつねに実力社会。ついていけない者は、左遷やリストラが待っています。そして、当の信長は、そうした家臣たちの抱えるプレッシャーやストレスに鈍感でした。
光秀も信長の考えに着いて行けなくなってしまった、家臣の一人であったのではとも考えられています。信長によって見出され、その信長を葬った光秀。有能な家臣であり、深い教養を兼ね備えた人物が、主を討とうと決意するまでにはどんな葛藤があったのでしょうか……。光秀という人物は、歴史の謎を一層深め、それがまた魅力となって、多くの人々を引きつけています。
信長を襲い、亡き者にしたのは、織田政権の中核を担っていた腹心・明智光秀。英雄的に語られる信長に対して、主君を暗殺した明智光秀は、「裏切り者」として歴史にその名を残すことになったのです。
そんな光秀ですが、2020年には大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公として取り上げられるなど、「裏切り者」ではない光秀の素顔に注目が集まっています。光秀とは、いったいどんな武将だったのでしょうか?
朝倉家でくすぶっていた光秀、信長に出会う
もともと光秀は、越後国(今の福井県)を拠点としていた朝倉家に仕えていました。出生年や家族の名前などは謎が多く、朝倉家に仕えるまでの経緯も、さまざまな説が考えられています。しかし、戦国時代は血縁や血筋がものを言う時代です。光秀は、朝倉家の家臣としての歴が浅く、重要視されるような人物ではありませんでした。一方、信長は出身国の尾張国(今の愛知県)を統一し、美濃国(今の岐阜県)を手に入れ、いよいよ京に上ろうと力を蓄えていました。ときの室町幕府将軍・足利義昭は、下克上によって京から追われ、越前の朝倉義景のもとに身を寄せつつ、京に帰るチャンスを狙っている状態。つまり、信長と義昭の利害が一致していたのです。この2人の架け橋として活躍したのが、ほかでもない、光秀でした。
これをきっかけに、信長と光秀は接近。ほどなく、信長と将軍・義昭は争い合う関係となってしまいますが、光秀は信長の家臣となり、天下統一に力を貸すようになります。
大器晩成型の武将だった明智光秀
信長は、「超」がつくほどの実力主義者。豊臣秀吉をはじめ、血筋にとらわれず、有能な人物が出世していくのが、織田家家臣の特徴でした。そんななかで、光秀はめきめきと、頭角を表していきます。政治的な判断に長け、教養人として和歌や茶道に通じ、京の公家衆や高僧にも顔が効くため、信長の腹心として地位を確立していったのです。人生50年といわれた時代に、光秀が信長と出会ったのは40歳を過ぎたころ。つまり、光秀は大器晩成の武将といって過言ではありません。
やがて光秀は、それまでの功績を認められ、丹波国(今の京都府亀岡市周辺)を与えられ、一国一城の主となります。治水をしたり、人々を苦しめる借金を取り消したり、光秀は自身の信じる正義と道徳に従った統治を行い、地元の人々に愛されるお殿様になりました。また、愛妻家としても知られ、妻である煕子意外に側室を持たなかったともいい、女性関係にもクリーンだったといいます。
本能寺の変の理由は、一体何だったのか?
名もない家臣として生涯を終えるはずだった光秀を、拾い上げた信長。光秀も、信長に大変感謝をしていました。ならば、なぜ本能寺の変を起こしたのでしょうか?接待の席での失態を責められ、信長に足蹴にされたことが理由になったという説。信長と政治的な対立があったという説。朝廷や、秀吉が背後にいたなどの陰謀説、黒幕説などが有名です。しかし一方で、信長に謀反を起こした家臣は、光秀がはじめてではありませんでした。信長は、前代未聞の天下統一をまえに、さまざまな改革を進め、それについていけなくなる家臣もたくさんいたのです。けれど、織田家はつねに実力社会。ついていけない者は、左遷やリストラが待っています。そして、当の信長は、そうした家臣たちの抱えるプレッシャーやストレスに鈍感でした。
光秀も信長の考えに着いて行けなくなってしまった、家臣の一人であったのではとも考えられています。信長によって見出され、その信長を葬った光秀。有能な家臣であり、深い教養を兼ね備えた人物が、主を討とうと決意するまでにはどんな葛藤があったのでしょうか……。光秀という人物は、歴史の謎を一層深め、それがまた魅力となって、多くの人々を引きつけています。