テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
社会人向け教養サービス 『テンミニッツTV』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2022.11.25

全国で愛されてきた日本独自の文化「市民オペラ」の舞台裏

 札幌、弘前、山形、仙台、松本、茨城、ひたち、つくば、市川、埼玉、朝霞、東京、藤沢、横浜、静岡、豊橋、揖斐川、京都、堺、伊丹、加古川、広島、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島…。

 これらには共通点があります。地域も自治体の規模もバラバラですが、何かわかりますか。

 正解は、いずれも「市民オペラ」のあるところです。西洋で生まれた総合芸術であるオペラを上演するため、市民がかかわっていくのが「市民オペラ」。普段は企業や家庭で働く人たちがオペラの公演に出演したり、制作に携わったりするのですが、その形態は、日本独自のものとして生まれ、継承の段階に入ってきました。

 ずばり『市民オペラ』(石田麻子著、集英社)と題された新書から、華やかなばかりでないオペラの舞台裏や今後の可能性を見ていきましょう。

市民オペラに必要な「ヒト・カネ・ハコ・機運」

 石田麻子氏が強調するのは、市民オペラの展開を知るには「組織や人」「資金面」「ホール建設」「上演機運の醸成」の4つの視点が必要だということ。会社の経営資源として「ヒト・モノ・カネ・情報」といわれますが、オペラの場合は「ヒト・カネ・ハコ・機運」が不可欠なのです。

 ヒトという要素からみると、市民オペラにかかわるのは、舞台上でスポットを浴びるソリストや指揮者だけではありません。合唱団、オーケストラ、演出家をはじめ、コレペティトゥア(練習の際の伴奏ピアニスト)、合唱指導者、照明デザイナー、衣装デザイナー、舞台監督などが必要ですし、それらを連携させ、スケジュール管理をしていくことも一筋縄ではいきません。さらに現場では、ミシンで衣裳を縫ったり、練習日のお弁当を手配したりするなどの細かい作業も、市民の自主参加が支えています。

「そんな手間のかかることをどうして?」と思われるかもしれませんが、その疑問は市民オペラにかかわったことがないからではないでしょうか。本書では、一度足を踏み入れるとやめられないオペラづくりの魅力を、さまざまな立場から、生の声を交えて紹介しています。

 たとえば現・新国立劇場オペラ芸術監督の大野和士氏は、1975年頃には藤沢市民オペラの合唱団員として舞台に立つ高校生でした。20年後、東京フィルハーモニー交響楽団のマエストロとして藤沢市民会館に里帰りした氏の姿こそ、凱旋という名にふさわしかったのではないでしょうか。

 また、長年合唱団として経験を積んできた男性は、超一流のソリストたちと同じ舞台で演じ、歌うことは何事にもかえられないと、オペラに「はまった」理由を語っています。お金にも、キャリアにも結びつかなくても、ただオペラを愛してやっているとのこと。音楽を心から愉しみ、自分の生活の一部になる経験。市民オペラの制作や晴れ舞台のあちこちに潜んでいるのは、町のスポーツ倶楽部のチームワークにも通じるものがあるかもしれません。

スポンサーの変遷で日本の「文化」史がひもとける

 カネについては、だれがスポンサーをしてくれるかが問題です。国や地方自治体など行政との関係が、市民オペラの方向性を左右するからです。革新政党が「文化的」とほぼ同義に語られ推進役となった1970年代から、80年代バブル経済の時期とも重なる「行政の文化化」、企業メセナなどを経て、舞台芸術と公的資金の関係には意識改革が起こりました。

 新国立劇場にオペラやバレエ、演劇の研修所ができたことに象徴されるように、おカミが文化へのカネを惜しまない姿を、市民も快く受容するには、50年の歳月が必要だったのです。

 21世紀に入ると、三河市民オペラ(豊橋)のようにビジネスの手法を活かす団体も出現してきました。三河市民オペラでは、組織運営を熟知する地域の会社経営者たちが「制作委員会」として活動を支え、2006年以来4回の公演を行ってきました。常にチケットの「完売」を目標に掲げ、実現してきた制作委員会がめざすのは「発表した瞬間に蒸発すること」だといいます。

 2022年3月に行われたソリスト・オーディション要項の文章のなかには、「完売・満席は熱い舞台と客席を創り上げるための欠かせない条件と考える。感動を生み出してくれるキャストやスタッフに敬意を払い、必ず満席の客席を用意したい」と記されています。しかも、出演条件として「チケットノルマはありません」と明記されており、上演に集中してほしいと願うことから、歌手たちの支持を集めています。

 三河市民オペラ成功の秘密として、本書には「舞台のつくり方の方程式」と「継続は目的ではない」という2つのキーワードが挙げられています。ビジネス手法を用いて「血が熱くなる」感動を生むこと。たしかに、感動にプロフェッショナルとアマチュアの区別はありません。

困難を乗り越えて――舞台芸術の与える感動と共感

 オペラが総合芸術であるだけに、市民オペラはあらゆる社会環境の影響を受けながら続いてきた活動です。2020年以来の新型コロナウイルス感染症は、市民オペラの世界にも猛威をふるいました。

 集まることがままならず、文字通り「呼吸を合わせる」場がなければ、合唱もオーケストラも、オペラも成り立ちません。そんな困難を知恵と工夫で乗り越え、2021年3月には立川市民オペラ公演《トゥーランドット》ハイライト&ガラコンサートが、2022年2月から3月にかけては藤沢市民オペラ《ナブッコ》が、それぞれ2020年3月の予定を大幅に延期して上演されました。

 とりわけ《ナブッコ》の初日は2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻直後の26日であったため、「バビロン捕囚」をテーマとする舞台は、極めて印象深いものになりました。練習期間中の困難も、公演中止や延期のリスクも抱えながら、ずっと「なんのための公演か」を考え抜いてきた出演者たちにとって、舞台芸術の与える感動こそ、有事を生き延びる物語への「共感」となったからです。

 著者の石田氏は、『日本のオペラ年鑑』編纂委員長をつとめるオペラの専門家。 東京藝術大学で博士課程まで音楽研究を学び、学術博士を取得しました。東京藝術大学では2016年から大学院に国際芸術創造研究科としてアートプロデュースのコースを設置していますが、その先駆けとなった人材といえるでしょう。現在は昭和音楽大学教授で学長補佐、またオペラ研究所所長を務めつつ、「文化政策論」の講義でアートマネジメント分野に携わる人材の育成にも力を入れています。

 読後、オペラを見に行きたくなるだけでなく、市民オペラの活動に参加したくなる――そんな本書をぜひお手元に置いて、歴史をつくる、参加するということを実感してみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
『市民オペラ』(石田麻子著、集英社新書)
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1135-f/

<参考サイト>
昭和音楽大学 オペラ研究所
https://www.tosei-showa-music.ac.jp/opera/

~最後までコラムを読んでくれた方へ~
より深い大人の教養が身に付く 『テンミニッツTV』 をオススメします。
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,100本以上。 『テンミニッツTV』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

陰の主役はイラン!?イスラエル・ハマス紛争の宗教的背景

陰の主役はイラン!?イスラエル・ハマス紛争の宗教的背景

グローバル・サウスは世界をどう変えるか(4)サウジアラビアとイランの存在感

中東のグローバル・サウスといえば、サウジアラビアとイランである。両国ともに世界的な産油国であり、世界の政治・経済に大きな存在感を示している。ただし、石油を武器にアメリカとの関係を深めてきたのがサウジアラビアであ...
収録日:2024/02/14
追加日:2024/04/24
島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授
2

権威主義とポピュリズムへの対抗…歴史を学び、連帯しよう

権威主義とポピュリズムへの対抗…歴史を学び、連帯しよう

民主主義の本質(5)民主主義を守り育てるために

ポピュリズムや権威主義的な国家の脅威が迫る現在の国際社会。それに対抗し、民主主義的な社会を堅持するために、国際社会の中で日本はどのように振る舞うべきか。議論を進める前提として大事なのは「歴史から学ぶ」ことである...
収録日:2024/02/05
追加日:2024/04/23
橋爪大三郎
社会学者
3

起業の極意!サム・アルトマンと松下幸之助

起業の極意!サム・アルトマンと松下幸之助

編集部ラジオ2024:4月24日(水)

ChatGPTを開発したことで一躍有名となったOpenAI創業者のサム・アルトマン。AIの発展によって社会は大きく、急速に変化しており、その中心的な人物こそが彼であるといっても過言ではありません。

そんなアルトマンが...
収録日:2024/04/15
追加日:2024/04/24
テンミニッツTV編集部
教養動画メディア
4

ルネサンスはどうやって始まった?…美術の時代背景

ルネサンスはどうやって始まった?…美術の時代背景

ルネサンス美術の見方(1)ルネサンス美術とは何か

ルネサンス美術とはいったい何なのか。これを考えるためには、なぜその時代に古代ギリシャ、ローマの文化が復活しなければならなかったのかを考える必要がある。その鍵は、ルネサンス以前のイタリアの分裂した都市国家の状態や...
収録日:2019/09/06
追加日:2019/10/31
池上英洋
東京造形大学教授
5

ノーベル賞受賞「オートファジー」とは?その仕組みに迫る

ノーベル賞受賞「オートファジー」とは?その仕組みに迫る

オートファジー入門~細胞内のリサイクル~(1)細胞と細胞内の入れ替え

2016年ノーベル医学・生理学賞の受賞テーマである「オートファジー」とは何か。私たちの体は無数の細胞でできているが、それが日々、どのようなプロセスで新鮮な状態を保っているかを知る機会は少ない。今シリーズでは、細胞が...
収録日:2023/12/15
追加日:2024/03/17
水島昇
東京大学 大学院医学系研究科・医学部 教授