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DATE/ 2024.05.13

『利他・ケア・傷の倫理学』でケアを哲学する

 現代社会では、利己主義が当たり前のものとして受け入れられています。個人の成功が価値あるものとされ、社会的な勝者となるための競争はますます激しさを増しています。

 受験競争や出世競争の中で、他者を蹴落とす必要に迫られることも珍しくありません。自己利益を追求する過程の中で、他人への思いやりや共感がおろそかになることもしばしばです。そんな利己的な行動が目立つ今日の世界だからこそ、利他やケアといった概念が注目を浴びています。

 今回ご紹介する『利他・ケア・傷の倫理学――「私」を生き直すための哲学』(近内悠太著、晶文社)は、多様性の時代でいかに人との関係性を結べばいいのかという問題について、利他やケアといった観点から哲学的に考察した一冊です。

 哲学の本といっても、決して難解なものではありません。豊富な例やなじみ深い題材を使って議論が展開されていきます。たとえば、本書の参考文献欄を見てみると、村上春樹、サン=テグジュペリ、遠藤周作、深沢七郎などの名前が挙がっています。さまざまな文学作品や、時には『ONE PIECE』、『鬼滅の刃』のような漫画をもとにしているため、無理なく読み進めていくことができます。

山本七平賞・奨励賞を受賞した著者が新たなテーマに挑戦

 著者の近内悠太氏は、教育と哲学の分野で活躍している人物です。専門は「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」といった言葉で有名なウィトゲンシュタインの哲学で、その知見は本書においても存分に活用されています。前著『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング)は発売とともに話題になり、第29回山本七平賞・奨励賞を受賞しています。また、「すべての学習に教養と哲学を」をコンセプトに掲げる学習塾「知窓学舎」の講師として教壇にも立っています。

『世界は贈与でできている』は、贈与という観点から「受け取るとはどういうことか」について哲学した作品でした。『利他・ケア・傷の倫理学』はその続編として位置づけられており、「与えるとはどういうことか」という、前著と対となるテーマが探求されています。利他やケアが「与える」という行為とどのように結びつくのでしょうか。

どうして善意が空回りするのか

 本書はまず「善意の空振り」という話から始まります。プレゼントを贈ったときに、思っていたよりも喜ばれなかったという経験はありませんか。良かれと思ってやったことが、かえって相手を困らせてしまう。このような「独りよがりな善意の空回り」はよくある話です。でも、なぜこんなことが起きてしまうのでしょうか。

 それは、現代が多様性の社会であることと関係していると近内氏は言います。「多様性」という言葉は現代を象徴するキーワードとしてすでに定着した感がありますが、これは「共通性」の反対概念です。一人ひとりが大切にしているものは多種多様で、それぞれに「物語」があります。「複数性」や「共約不可能性」によって特徴づけられるこの社会では、共通の基盤や、共通した「大切にしているもの」が見えにくくなっているとも言えます。だからこそ、自分が良いと思ったプレゼント(大切にしているもの)が相手にはそうでないといったことが起きやすいのです。

 近内氏は、ケアを「他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」と定義します。この見方からすれば、先ほどの例はプレゼントする前に、相手の大切にしているものをしっかりと把握する必要があるということでしょう。

 また、利他の概念についても「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること」と定義されています。本書では、この利他概念を哲学していった先に、他者と関わることで自分も変わるという「セルフケア」の構造が見いだされていきます。

「楢山節考」は「セルフケア」の物語だった

 近内氏は、「セルフケア」としての利他がよく現れている文学作品として、深沢七郎の「楢山節考」を取り上げています。この作品では、貧しい村で高齢者を山に捨てる「姥捨」の習慣が描かれています。

 物語の中で、辰平という男が自分の母親であるおりんを背負い、山に捨てに行きます。辰平は立ち去る途中で雪が降り始めたことに心動かされ、村の掟を破って振り返ります。「おっかあ、雪が降ってきたよう」とおりんに伝え、辰平は山を降ります。

 近内氏は、ここに辰平の利他心が見られると指摘します。辰平は自分の「大切なもの」として村の掟に従おうとしますが、ここではそれよりも優先されているものがあります。それは「未来の自分」です。掟に従って振り返らず、おりんに最期の別れをしなかったことになる「未来の自分」の傷をケアしたのだというのです。未来の自分という他者への「セルフケア」が、楢山節考の核心にあると解釈されています。

 近内氏によると、現代人は「管理」、「支配」、「コントロール」に慣れ、予見不可能な事態への対応力が衰えています。その結果、利他やケアが苦手になってしまいました。相手が「大切にしているもの」を守るためには、「こうしなくちゃいけない」、「こうあるべき」といった規範性を時として打ち破ることが必要になります。それが楢山節考に秘められたメッセージであり、ケアや利他から開かれる風景なのです。

 本書にはこのようなケアの本質に迫る考察が満載です。ぜひ書店で手に取ってご覧ください。

<参考文献>
『利他・ケア・傷の倫理学――「私」を生き直すための哲学』(近内悠太著、晶文社)
https://www.shobunsha.co.jp/?p=8166

<参考サイト>
近内悠太氏のX(旧Twitter)
https://twitter.com/YutaChikauchi
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小原雅博
東京大学名誉教授