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DATE/ 2025.02.10

『ヘーゲル(再)入門』に学ぶ「流動性の哲学者」の本質

 みなさんはヘーゲルという哲学者をご存じでしょうか。本名ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍したドイツの哲学者です。「弁証法」や「正反合」、「止揚」といった言葉を高校倫理の教科書で目にしたことがある人もいるかもしれません。あるいは、西洋近代哲学の完成者として、壮大な哲学体系を築いた思想家というイメージを持っている人もいるでしょう。

 2017年に東京・築地市場の豊洲への移転問題の際、小池百合子都知事が記者会見で「アウフヘーベン」という言葉を使ったことも話題になりました。「アウフヘーベン(止揚)」とは、対立する二つの要素を否定しつつも、それぞれの本質をより高い次元で統合することを意味する哲学用語です。小池都知事は、築地市場と豊洲市場の対立を超えて、新たな市場のあり方を模索する意図で、おそらくはヘーゲル哲学を意識しながらこの言葉を用いたと言われています。その影響もあって、「アウフヘーベン」は2017年のユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされました。

 一般的にはこのようなイメージのヘーゲルの哲学ですが、「近代哲学の完成者」や「ヘーゲル弁証法=正反合」といったイメージは、すでに専門家の間では過去のものとなっています。

 今回ご紹介する書籍『ヘーゲル(再)入門』(川瀬和也著、集英社新書)は、若きヘーゲル研究者による最新の研究成果を踏まえた入門書です。本書は、従来のヘーゲル像にまつわる誤解を解きほぐしながら、ヘーゲル哲学の新たな理解を示そうとする意欲的な一冊です。

新進気鋭のヘーゲル研究者が従来のイメージを覆す

 本書の著者である川瀬和也氏は、横浜市立大学国際教養学部の准教授を務めるヘーゲル哲学の専門家です。これまでの著作には、博士論文を基にした『全体論と一元論 ヘーゲル哲学体系の核心』(晃洋書房)や、一般向けに分かりやすく書かれた『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』(光文社新書)などがあります。

 川瀬氏は、「西洋近代哲学の完成者」という従来のイメージに代えて、「流動化する、ダイナミックな体系を作ろうとした哲学者」という新たなヘーゲル像を提示しています。川瀬氏はヘーゲルの文章を読んでいると、他の哲学者の文章では味わえない独特の感覚に襲われると述べています。ヘーゲルの思考の動きがそのまま文章に反映され、まるで文字や文章が動き出すように感じられるというのです。この独特の感覚こそがヘーゲル哲学の「流動性」であり、それをつかむことがヘーゲル哲学を理解する鍵になると川瀬氏は述べています。

「つぼみ」と「花」が統合して「果実」になるって、やっぱりおかしい

 一般に、ヘーゲルの弁証法は、物事が対立しながら発展していく過程を説明する考え方だとされます。教科書的な説明では、まずテーゼ(=正)が示されると、それに対立するアンチテーゼ(=反)が現れ、この対立を乗り越えた新たなジンテーゼ(=合)が生まれるとされています。この対立が統合される過程をアウフヘーベン(止揚)といいます。

 弁証法の具体例として、教科書では「つぼみ」「花」「果実」がよく取り上げられます。つまり、最初に「つぼみ」(テーゼ)があり、それが開いて「花」(アンチテーゼ)となり、最後に「果実」(ジンテーゼ)へと成長していくという流れです。

 川瀬氏は、このような図式的な理解は明らかな誤解だと指摘します。まず、「正反合」という図式がヘーゲル哲学の中心概念であり、その最大の成果であるという見方自体が誤っているというのです。そもそも、対立する二つの意見の間で折衷案を見つけることは、人々が日常的に行っていることであり、わざわざ「ヘーゲル弁証法」として特別に持ち上げるほどのものではありません。

 さらに、「つぼみ」「花」「果実」という比喩を「正反合」の図式に当てはめるのも無理があるといいます。花がつぼみを否定するというのはまだしも、つぼみと花を合わせることで果実が生まれるというのは、比喩としても成立しにくい。したがって、「正反合」の枠組みでヘーゲルの弁証法を説明すること自体に大きな問題があるのです。

「正反合」と植物の比喩でヘーゲルが意図したこと

 では、ヘーゲルはこの比喩を通じて何を伝えようとしていたのでしょうか。川瀬氏は、ヘーゲルのテクストを丁寧に読み解きながら、その意図を解説しています。ヘーゲルは次のように述べています。

「しかし、植物の流動的な本性は、それらを同時に有機的統一の諸契機とする。その統一においては、それら諸契機は互いに対立しないだけでなく、それぞれが他と同様に必要である。そしてこの同等の必然性がはじめて、全体の生を可能とするのである」(『精神現象学』)

 つぼみが花へと変わり、花が枯れて実がなるという過程は、一見すると異なる段階が互いに対立しているように見えます。しかし、実際にはそれらは一つの有機的な統一の中にあり、どの段階も欠かせない要素として機能しているのです。

 実はこの植物の比喩は、哲学の営みそのものを理解するために持ち出されています。ヘーゲルが生きた時代には、カントやフィヒテ、シェリング、さらにさかのぼればライプニッツやジョン・ロックといった哲学者たちの理論が存在していました。これらの哲学体系は互いに対立しており、どれが正しいのかという疑問が生じます。しかし、ヘーゲルはそれらを単なる対立として捉えるのではなく、哲学が真理を探求する過程で発展してきたものと考えました。

 つぼみ、花、果実が互いに対立するのではなく、一つの植物として統一されているのと同じように、対立する哲学体系もまた、哲学的真理を形作るために必要なものなのです。ヘーゲルがこの比喩を用いたのは、そのことを示すためだと川瀬氏は指摘しています。

 このように、川瀬氏は従来の固定的なヘーゲル像を修正しながら、あらゆるものを流動化させる「流動性の哲学者」としてのヘーゲルを描き出していきます。

 ヘーゲルは、哲学者の中でも特に難解な文章を書くことで知られています。実際、ヘーゲルの本を読み始めて、あまりの難しさに途中で挫折してしまう人も少なくないでしょう。しかし、川瀬氏は「それだけに、頭をひねって理解する喜びもある」と述べています。

 本書は「前提知識を必要としない入門書」とされており、ヘーゲルに興味を持ち始めた人はもちろん、一度挑戦して挫折した人でも、無理なく(再)入門できるよう書かれています。最良の導き手とともに、ヘーゲル哲学の世界に一歩踏み出してみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
『ヘーゲル(再)入門』(川瀬和也著、集英社新書)
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721342-3

<参考サイト>
川瀬和也氏のX(旧Twitter)
https://x.com/kkawasee_wdl

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