●テロリストに対してテロリストになってはならない
では、実際編に移りたいと思います。効果的なテロ対策とは何でしょうか。テロ対策を考える際に、強調しておきたいことがあります。それは、われわれ自由主義的民主主義国、すなわちリベラルデモクラシーの国の基本原則である、自由・人権・法による支配を順守するということです。
皮肉なことに、テロリストはわれわれの基本的な価値である自由・人権、法による支配を悪用します。思想・表現の自由、あるいは通信の自由は貴重なものですが、これらが悪用されるのです。刑事被告人の権利も当然尊重されなければなりませんが、これをテロリストは悪用します。
しかしわれわれは、こうした基本的な価値を悪用するテロリストに対して、基本的な価値を見失ってはなりません。テロリストに対してテロリストになってはならない、とよく言われているのはこのことです。したがって、法律にのっとってわれわれの基本的な価値を守りながら対処するということ、これがテロ対策の基本です。
●治安維持行為では、必要最小限の実力行使しか許されない
テロ対策として必要なことは、未然の防止です。事件が起きてしまうと、多くの国民が犠牲になります。これを防ぐために大事なことは、不審者を発見することです。証拠もきちんと押さえておく必要があります。なぜなら裁判で犯人を有罪にして初めて、テロの事件は解決した、テロ対策は成功したといえるからです。
さらに、治安維持行為では、必要最小限の実力行使しか許されません。そうでなければ、われわれの基本的価値を無視することになってしまうからです。ここが戦争との大きな違いです。戦争では付随的被害を出し、一般市民を巻き込んでも、事実上は免責されます。しかし、リベラルデモクラシーの国においては、一般住民に被害を出せば責任を追及されます。というのも、一般住民への被害はリベラルデモクラシーの価値と相反するからです。
例えば、かつてオウム真理教の施設に「サティアン」というものがありました。信徒が生活したり、危険な化学兵器を製造したりしていた施設です。当時のニュースを思い出してください。捜査員が化学兵器探知機を持って行くと、サティアンの近くでは反応しすぎてしまって操作になりませんでした。そこで代わりに、カナリアのかごを持っていったのです。これは炭鉱で使われる方法で、非常に原始的ですが、当時は本当に命がけでした。もしサリンがまかれていたとして、カナリアで検知できるのか分かりません。検知する前にサリン中毒になってしまう可能性もあったのです。
当時、警察は化学防護衣を持っていなかったので、自衛隊からそれを借りて捜査に当たりました。しかし、短期間で化学防護衣の着装を勉強しなければならないという状況で、本当に命がけの活動でした。
では、なぜサティアンごと吹き飛ばしてしまわなかったのでしょうか。危険なサリンごと爆破してしまえば良いではないでしょうか。しかし、これは戦争ではないのです。サティアンの中には、だまされてオウム真理教に入信した人もいます。あるいは、罪が軽くて死刑にはとても値しない人もいました。事件の真相究明も必要です。したがって、サティアンごと吹き飛ばすということは、リベラルデモクラシーの国の治安維持としては許されないことです。このように、戦争では許されても治安維持では許されない行為があり、武器の使用には制限があるのです。
●自由および人権と安全との釣り合いを常に意識すべきだ
次に、対テロ法についてお話しします。対テロ法とは、分かりやすくいうと、テロリストあるいはテロの容疑者を特別に厳しく扱う法律です。テロ容疑者でなければ、規制の対象とはなりません。
例えば、これは外国の話ですが、パソコンを持つことが禁じられる場合があります。パソコンがテロに使われる恐れがあるからです。普通の人であれば、パソコンを持つことは当然、可能です。現代人はパソコンがなければ生活できません。しかし、テロ容疑者にはパソコンを扱わせない、あるいはスマホは持たせないと決めている国がヨーロッパにはあります。民主主義の国においてもそうです。
注意しなければならないのは、自由および人権と安全との釣り合いを常に意識すべきだということです。したがって、対テロ法の適用には細心の注意が必要です。受容すべき危険を意味する「アクセプタブルリスク」と、受容すべき制限を意味する「アクセプタブルリミット」という言葉があります。
もちろん100パーセントの安全を目指すのであれば、抑圧的国家になるのが一番です。しかし、それはわれわれの基本的価値とは相いれません。また、100パーセントの自由と人権保障を求めれば、効果的なテロ対策は難しいでしょう。安全は、リベラルデモ...