●「建」の字で始まった武家支配の世
鎌倉時代になると、治承4(1180)年2月21日に、高倉天皇と平徳子の間に生まれた言仁(ときひと)親王を践祚させ、安徳天皇とします。安徳天皇が代始めとして「養和」に改元します。
しかし、安徳天皇が平氏系の天皇だったことから、対立していた源氏は治承という元号を継続して使用します。つまり、自分が支持しない政権が改めた元号は使わず、そのことで反政権を示す姿勢が、ほぼこの頃から行われているわけです。
平氏が都落ちすると、後白河法皇は高倉天皇の第四子を践祚させて後鳥羽天皇にします。後鳥羽天皇の誕生で「寿永」への改元が行われますが、安徳天皇を奉じる平氏は当然それまでの養和という元号を使うことになります。
寿永2(1183)年10月14日に、朝廷は源頼朝の東国支配権を公認します。その後、平氏は亡び、元号は一本化されます。鎌倉幕府の初期には、「建久」「建仁」「建暦」「建保」と「建」の字がつく元号が目立ちます。これは、新しい武家支配の成立、新しい政権を立てるという意味で「建」が好まれる傾向があったのかと感じられます。
●二つの朝廷、二つの元号が続いた南北朝時代
鎌倉時代の末期、後醍醐天皇が元徳3(1331)年8月9日に「元弘」に改元します。しかし、幕府はこれを認めません。幕府の方では反乱を起こそうとする後醍醐天皇の改元に反対を唱えたわけです。翌元徳4(1332)年は、後醍醐天皇の元号では元弘2年に当たりますが、この年、光厳天皇の即位による「正慶」への改元が行われます。
その後、後醍醐天皇の討幕運動が成功して、鎌倉幕府は倒れることになります。それまでずっと元弘が継続しているという解釈だった後醍醐天皇は、元弘4(1334)年に「建武」と改元を行います。建武は、幕府を倒して政権を樹立したという意味で、後醍醐天皇は「武」の字を使いたかったのだと思います。公家の間では「武」のような物騒な字が元号に入るのは非常に好ましくないと批判したという話も残っています。
建武3(1336)年になると、後醍醐天皇は主導権が取れないために京を逃れ、「延元」に改元します。京を維持した足利尊氏は、後醍醐天皇政権の下で定められた「建武」の元号を引き続き使います。
その後、足利尊氏は光明天皇を北朝に擁立し、代始めとして「暦応」に改元します。これ以降、尊氏はこの元号を使い、南朝は南朝のつくった元号を使うことになります。朝廷の分立に伴って、元号も分立して使われたわけです。
南北朝時代は、南朝方につく武士、北朝方につく武士、いずれにもつかない武士がいて、三つ巴で争うような時代でした。南朝方は南朝の元号、北朝方は北朝の元号、それ以外の人間はどちらかを選ぶということで、それぞれ自分が奉ずる王朝の元号を使うことになります。
北朝の明徳3(1392)年閏10月5日、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位します。これを南北朝合一といいますが、この時北朝の天皇に南朝が合一することになったため、元号は北朝の「明徳」に一元化します。
●朝廷の衰微を示す元号の長期使用と後花園天皇の改元
南北朝時代は王朝が分裂した時代ですが、それでも天皇や朝廷に力のある時代でした。その後、室町・戦国・安土桃山時代になると、天皇家の力は次第に衰微して、経済的にも困窮するようになるわけです。
そのような中、室町時代に「応永」という元号があります。この元号は、33年と10カ月という非常に長い期間、続いています。前半は、南北朝合一を実現した室町幕府3代将軍・足利義満の大御所時代、つまり義満が政権を握っていた時代です。後半では、後小松天皇が称光天皇に譲位するものの、院政を行ったため、実際の政治はずっと後小松天皇が行っていました。元号を新たにするモチベーション自体が上がらないため、代始めの改元もなかなか行われないということで、結果的に33年10カ月という非常に長い元号が実現したわけです。
次に、後花園天皇の時代には、1代で8回も改元をしています。後花園天皇は、正長元(1428)年7月28日に、称光天皇の崩御を受けて践祚しています。
その後、どれぐらい改めたかというと、まず代始めで「永享」。辛酉革命で「嘉吉」。甲子革令で「文安」。そして、彗星の出現や暴風雨、疫病の流行があったので「宝徳」と改元し、その後まだ疫病が流行するので「享徳」になります。ところが、「享徳の乱」などの戦乱がありましたので、「康正」という元号に改め、その後日照りや疫病の流行のために「長禄」に改めます。さらに旱損、虫損、飢饉などで生産物がなかなかできないため、「寛正」という元号に改元しました。
このように何度も改元した後花園天皇の後、時代は戦国時代に移って...