●はじめに~自民党の歴史から振り返る“保守"とは何か~
テーマは“失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち"ということで、お話したいと思います。
第1回は、渋い政治家だった保利茂さんにふれて、保守とは何なのかということをお話したいと思います。
いわゆる今の自民党と言いますか、そういうところには、私は、保守の知恵というのが決定的に欠けているのだろうなというように思うわけです。
自民党の歴史というのを振り返ってみた場合、田中角栄とか宮澤喜一とか、そういう人が近代では思い起こされるわけですけれども、その前の石橋湛山とか松村謙三さんなどにしても、まともな保守というのは、やっぱり日米関係と日中関係というものをバランスさせながら外交を展開してきた。アジアの代表を中国とすれば、そのようにバランスさせながらやってきたと思うわけです。
●日米関係偏重の外交が続く小泉以後~奥行きをなくす保守~
ところが、小泉純一郎さん以後、特に日米関係だけに偏ってしまって、日中関係というものがないがしろにされてきた。
私は、小泉純一郎という人とは、幸か不幸か、同じ年に同じ大学を卒業した間柄で、何度か食事もしたことがあります。
小泉さんは、やはり考え方がすごく単純といいますか、分かりやすい。だから、私は「小泉単純一郎」と言っているわけですが、「日米関係が基軸なのだ」ということで、日米関係に重きを置き過ぎた。「日米、日中という二次方程式を解けなかった人だ」と、私は言っているわけです。
小泉さんのあとに、現在の安倍晋三さんが第1次安倍内閣というのを組織するわけです。安倍さんは、言ってみれば「一次方程式も解けなかった人」。それで、その次の福田康夫という人は、最初から方程式を解く気がなくて、麻生太郎という人に至っては、方程式の意味が分からなかったというように、私は批判しているわけです。
現在の危機というのは、一次方程式を解けない安倍晋三さんと、方程式の意味が分からない麻生太郎さんが、2トップになっているということです。例えば、安倍さんが靖国参拝してしまったわけですけども、それがどういう意味を持つのかという、そういうことがほとんど深く考えられない。
私は、保守というのはそういうことではなくて、やはりさまざまな知恵を働かせながら、異なる立場、異なる意見、異なる思想との、いわば共存を図るということが、保守の知恵だと思うのです。それが、ものすごく奥行きがなくなっている。
●ニクソンショックと保利書簡~敵対する美濃部に託した保利茂の懐の深さ~
1971年、保利茂という人が、佐藤栄作さんが自民党総裁、首相だったときの幹事長だったのです。そして、その頃、いわゆる「ニクソンショック」というのが日本を襲うわけです。日本は、アメリカとすごく盟友関係であるというつもりだったのが、アメリカのほうは、日本を飛び越して、ある種敵対視していたと思われた中国と国交を回復してしまうわけです。これが、いわゆる頭越しの国交回復というものになってくる。
それで、佐藤栄作、当時の佐藤政権というのは、驚天動地、裏切られたというような思いになっていくわけです。
そのときに自民党幹事長だった保利茂、佐藤政権の官房長官もやっていますけれども、この大番頭が「これではならじ」と。やはり頭越しにやられたものを、日本の存在価値というものを示しながら、回復していかなければならない。それにはどうしたらいいかということを考えに考え抜いて、当時の中国の首相、周恩来に手紙を書くのです。
しかし、その手紙は、いわゆる保利書簡と言われるものですけれども、その保利書簡を誰に託すのかと。つまり、誰に託して周恩来に届けてもらうかということが、また大きな問題となるわけです。
そのときに、保利さんはいろいろ考えて、手づるを探して、当時の東京都知事の美濃部亮吉さんにこれを託すわけです。
美濃部さんは、いわゆる革新系の都知事として中国とのパイプがあって、 周恩来に会いに行くというところで、それがかなうと。その美濃部さんに、保利さんは頼むわけです。そのときに、保利茂という人のまた奥深さを感じるわけですけれども、美濃部さんに「これを頼む」というときに、保利さんは、「美濃部さん、あなたがこれを私から託されて周恩来に渡してくれるというときに、それがあとで分かったら、あなたは困った立場に置かれませんか」ということを心配して、それを美濃部さんに伝えているわけです。美濃部さんは、「あるいは困った立場に置かれるかもしれません。しかし、日本のためには、私はその非難を覚悟して持って行きます」と言って、その立場を超えた思いがそこで結実する。
そして、周恩来に届いて、周恩来は、「佐藤政権の番頭の手紙な...