●ハト派の双璧の評伝を書こうとした作家・城山三郎
“失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち”のテーマで、大平正芳と宮澤喜一の関係から現在のハト派衰退までを見てきました。
この大平正芳と宮澤喜一について、二人の評伝を書こうとしたのが、作家の城山三郎さんです。残念ながら、大平さんについての評伝は完成しませんでした。しかし、城山さんが病を得てから晩年最期までその完成に意を尽くしたのが大平正芳伝でした。宮澤さんについては、『友情力あり』という若き日の宮澤喜一についての評伝を書いていますが、同じ一橋大学出ということもあって、城山さんは大平さんにより近かったと言えるだろうと思います。そして、大平さんのハト派的側面を非常に大事にしました。
●国家の欺瞞を糾弾する自伝小説『大義の末』
城山三郎は、本名を杉浦英一といい、17歳で海軍に少年兵として志願します。当時の状況の中で、自らが国を守るという意識で志願するわけですが、城山さんは後年「自分はあれを志願と思ったが、あれは志願ではなかった。当時の社会や国が強制したのだ、いわば志願と思わされたのだ」と言っています。
少し批判的なことを言えば、現在評判になっているという小説『永遠の0(ゼロ)』などには、そういった自ら少年兵として特攻に行く寸前までいった城山さんのそのような述懐、あるいは悔恨というようなものが徹底的に欠落していると私は思います。
自分自身がそのように志願と思わされた、それを志願と思ってしまった、そういう社会状況、社会、国家を二度と青年に味わわせてはならないということから、城山さんは『大義の末』という小説を書きます。この1冊はどうしても書き残しておきたいということで書いた作品です。戦時中ベストセラーになった『大義』という本があります。杉本五郎という陸軍中佐が書いた本で、国のために死ぬことが美しいのだと、どこかの首相が「美しい国」だとか言っていますが、そのように当時の青年を煽り立てた本です。その「大義」というものが結局どういう結果を生んだかということを、城山三郎が自らの体験をもとにして書いたのが『大義の末』という小説です。
そうした体験から、城山三郎は、国家、社会、とりわけ国家に裏切られた、自分の生は昭和20年で終わってしまった、それ以後は余生であるということで、自分をだました国家というものに対して、生涯、いわば復讐戦を挑んだのです。そうして、組織、国家、あるいは大義というものの欺瞞性を徹底的に描いたものが城山文学であるということになるだろうと思います。
●二つの原点「護憲と勲章拒否」
城山さんの特徴をもう一つお話ししたいと思います。私は、城山さんのお別れの会で弔辞を読んだときに、中曽根康弘さんや小泉純一郎さんら歴代首相が居並ぶ中で、あえて言及しました。それは、城山さんの二つの原点は護憲と勲章拒否であるということです。新しい日本国憲法を護ることと、勲章拒否。その二つの精神を忘れないでほしいと言ったわけです。
国家は少年や国民をだますことがある。自らがそれを体験したということから、城山さんは国家というものをどこか信じられない。そのことから城山さんは勲章をもらわない姿勢を貫きました。そして、実業家では中山素平さん(『運を天に任すなんて』)や石田礼助さん(『粗にして野だが卑ではない』)、あるいは官僚の佐橋滋さんといった、勲章などいらないと考える人たちの評伝を書きました。この佐橋さんを描いたのが小説『官僚たちの夏』です。城山さんは、そのように護憲と勲章拒否を姿勢として貫いた人であったわけです。
●日本が戦争で得たものは憲法だけ
私は2004年に「憲法行脚の会」という護憲の組織を立ち上げました。城山さんは、実際の運動には携わらないことをずっと標榜していましたが、たってとお願いして呼びかけ人になってもらいました。
そのとき、城山さんがこんなことを言いました。「戦争は全てを失わせる。戦争で得たものは憲法だけだ」。やはり城山さんは見事に一言でその本質を言い当てていると思いました。ですから私はその後の憲法行脚の会のある種のテーゼ、スローガンとして、「戦争で得たものは憲法だけだ」という城山さんのこの言葉をモットーに運動を続けてきました。
●城山作品を愛読する政財界人への疑問符
多くの政財界人が愛読書として城山さんの『男子の本懐』を挙げます。しかし、そのように城山さんの小説、作品を愛読書として挙げる人たちが、どこまで城山さんの護憲と勲章拒否の精神を理解しているのか。城山三郎という人が何を求め、どういう人間を価値ある人として描いたのかが、その愛読者、特に政財界人に理解されているのかどうか。残念ながら大きな疑問符がつきまとうように私は感じて...