●秘書グループから政界入りした兄弟分の後継争い
“失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち”のテーマで、田中角栄まで話を進めてきました。
田中角栄の盟友といえば大平正芳。日中国交回復は、いわば田中・大平のコンビでやったようなものです。そして、大平正芳という人を考える場合に、対のように浮かんでくるのが、宮澤喜一という人物です。
どちらも同じように池田勇人の秘書官出身として、秘書官グループの中から政界に出てきます。ところが、兄弟分である大平・宮澤は、やがて権力の座をめぐってあまりしっくりいかなくなるのです。考え方は「ハト派」という点で共通していた二人ですが、一つの権力をめぐってどちらが早く後継者になるかということで、ある種の葛藤があったのです。
宏池会のトップには、大平の前に前尾繁三郎という人がいました。前尾と大平の間に争いがあったことが、前尾の直系である宮澤と大平の間にやや隔たりをもたらしたのでしょう。しかし、中国とも仲良くしなければならない」と、その考え方はまったく同じであったと私は思います。
●安岡正篤との関係で色分けできる保守系首相の系譜
一つおもしろいのは、保守系歴代首相の指南番と言われた、安岡正篤との関係です。この人は池田勇人が宏池会を結成したときの名付け親であり、「平成」の年号決定にも関わったと言われます。この安岡という人物についての態度が、大平と宮澤でははっきりと分かれるのです。
吉田茂にはじまり、池田勇人、そして大平という流れの人たちは、ある種の精神安定剤として安岡を大事にしました。ところが、宮澤喜一の場合は、自身が幼時から漢籍・漢学に馴染んできたこともあって、「安岡何するものぞ」という感を抱いていました。
やや話はそれますが、安岡正篤との距離感という意味では、官僚出身の保守の首相たちが安岡を大事にしました。しかし、そうでない石橋湛山、三木武夫、田中角栄という人たちは、自らが決定するという姿勢を持ち、安岡を恃まなかった。その系譜に、宮澤も属していたということです。
この安岡正篤は反共産主義、反共の思想で、台湾を大事にしたところから、日中国交回復にはいわば反対の立場をとった人でもあります。そこでも、宮澤・安岡の間には距離があったということだろうと思います。
●宏池会内の温度差が現在の安倍政権を生んだ
ここで話は少し先回りします...