●日本の卓球界を牽引し、二度の世界チャンピオンに
“失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち”の中で、少し毛色の違った人の話をしたいと思います。取り上げるのは、卓球選手の荻村伊智朗です。
卓球競技は、今や中国に世界の王座を奪われていますが、かつては日本が王座の地位を占めていました。例えば、ダブルスや団体やシングルなど、6種目や7種目の中で、4種目、あるいは5種目、日本がチャンピオンになる時代があったわけです。その時代をリーダーとして引っ張っていたのが、男子では荻村伊智朗、女子では松崎キミ代という人でした。
私は、中学、高校と卓球をやっていましたので、荻村伊智朗といえば、それこそ神様のような存在です。確か私よりひと回りほど上の人で、残念ながら亡くなってしまいました。
荻村伊智朗さんは、確か2歳9ヶ月だったかで幼くして父親を亡くし、母一人子一人の生活を送ってきた人ですが、そういう環境もあってか、大変に粘り強い人で、長じては世界、シングルスで世界チャンピオンに二度なりました。
●国際卓球連盟会長として南北朝鮮統一チームを実現
荻村伊智朗は、その後、国際卓球連盟の会長になり、1991年に、千葉県の幕張で開かれた世界卓球選手権で、南北朝鮮統一チームの実現を図って、大変な努力をするわけです。
当時は、今と同様、あるいは今以上に、南北朝鮮の間には緊張感が満ちていました。そういう中で、なんとしても統一コリアチームを実現させたいと荻村伊智朗は考えたわけです。そして、韓国に20回、北朝鮮に15回足を運んで、この統一コリアチームを実現させます。
韓国に20回、北朝鮮に15回です。つまり、ほとんど100パーセント無理だったことを奇跡的に実現させたわけです。私と荻村さんを比較しては大変失礼ですが、もしも私がその立場だったとしたら、3回行って駄目ならあきらめます。ところが荻村さんは、韓国に20回、北朝鮮に15回足を運んで、不可能を可能にしたのです。
どちらのチームもそれぞれに強く、その統一チームは、なんと奇跡的に、これまた奇跡的に、女子団体戦で、決勝で中国を破って優勝するわけです。幕張の体育館を埋め尽くした南と北の在日の人たちが、大変な熱狂に包まれたそうです。もちろん国歌などは歌えませんから、優勝したときには朝鮮民謡の「アリラン」を歌うと決めてありました。その日、在日の人たちのアリランの大合唱が幕張の体育館を包んだということです。
●国際卓球連盟の精神が支えたピンポン外交
もともと国際卓球連盟という組織は、国単位で集まっていたのではないのだそうです。初代会長アイボア・モンタギュー氏の精神で、連盟単位で集まる組織として始まったのです。だから国は関係ないのです。国旗や国歌は最初から使っていませんでした。自分が選手だった頃は気付きませんでしたが。アメリカと中国のいわゆる「ピンポン外交」が生まれ得たのは、そういう背景もあるわけです。国旗、国歌にこだわる競技だったら、ピンポン外交は成し得ませんでした。荻村伊智朗は、そのピンポン外交のある種の影の立役者である周恩来から大変な信頼を得ていたことも、この統一コリアチームの実現に寄与しました。残念ながら、皮肉にもと言うべきか、1988年のソウルオリンピックで卓球が五輪競技種目に加えられることになり、連盟は規約を改正して国旗、国歌を使うことになってしまいました。しかし、やはり他の競技とは違って、連盟単位であり、国単位ではないということは浸透していたのだろう思います。
●映画『ハナ』の感動と荻村の不在
2012年に韓国で『コリア』という映画が作られます。これは、先ほど申し上げた1991年の南北朝鮮統一チームが幕張で開かれた世界卓球選手権で優勝した実話をもとに作られた映画です。これが韓国で大ヒットし、2013年には日本でも上映されました。北との緊張関係もあって残念ながら大手の映画館では上映されず、『ハナ~奇跡の46日間』という邦題に変えられて、小さな映画館での上映になりました。「ハナ」とはハングルで「ひとつ」の意味だそうです。
私はこの映画を渋谷の小さな映画館で見ました。私は卓球やっていたこともあって本当に涙涙でしたが、卓球をやったことのない私の友人も涙を禁じ得なかったという、そういう感動的な映画になっていました。ただ、残念なことに、この映画を作ったのは韓国の若い監督だったものですから、荻村の“お”の字もないわけです。荻村が韓国に20回、北朝鮮に15回足を運んでこれを実現させたことを知らずに、とにもかくにも統一チームが出現して優勝しましたという話になっています。最初は角突き合う状況から、日本に来て長野と新潟で45日ほどの合宿を経て、世界選手権に臨みます。その中では...