●大野伴睦の底深い知恵~違いを認めた上での政治~
保利茂という人は、自民党の中、あるいは政党、政治家の中では、いわゆる党人派と言われる、官僚出身ではない人です。その保利さんの先輩で、大野伴睦という副総裁がいます。
この人は、ある種の利権政治家の代名詞のように言われますけれども、新幹線を岐阜の羽島、つまり田んぼの真ん中の、あまり乗降客がないようなところに自分の権限で停めたと言われていて、岐阜羽島の駅に降りますと、大野伴睦だけでなくて、奥さんと2人の銅像が建っているという人です。この大野伴睦という人にも、私は保守の知恵というものをすごく感ずるのです。
というのは、『大野伴睦回想録』という非常におもしろい本があります。いみじくも、これをリライトしたのが、現在の読売新聞のドン、渡邉恒雄さんで、若き日にこの『大野伴睦回想録』をまとめているわけです。その中に書かれているのですが、戦後まもなく、もちろん日本と中国の国交が回復されていなかった頃に、当時日本共産党の議長だった野坂参三さんが、戦争中は中国に逃れていたわけです。それで、戦後、まだ国交が回復されていない中国に、もう一度渡りたいと言った。しかし、当然外務省はビザを出さない。ところが、野坂さんはどうしても行きたいということで、やはり戦前からの政治家ということでつながりがあったのでしょうか、大野伴睦さんに「なんとかしてくれ」と頼むわけです。
すると、大野伴睦は外務省に言って、「行かせてやれ」と口を利く。それを知って、当時の自民党の若手は騒ぐわけです。「大野さんはおかしい、共産党のトップの面倒を見る必要があるのか」というように騒いだときに、大野伴睦は、「もともと赤の人間を赤の国にやってもどうということはないんだ」と言って、その騒ぎを鎮めたと言われるのです。
私はここに、やっぱり見事な、あるいは年輪を経た保守の知恵というものを感ずるわけです。どういうことかと言うと、共産主義という中国共産党が指導する中国という国、考えの違った国があるのだということをまず認めているわけです。そして、そこに惹かれる人たちがいると、そういうものも認めている。あるいは共産党のほうから何かお返ししてもらうことがあるかもしれないし、ないかもしれないけれども、そこで一つのいわば共産党に貸しを作っているわけです。
そのように大野伴睦という人が計算したかどうかは分かりませんけれども、そういう考えが違うという人たちがいるのだということを認めた上での政治、残念ながら、今の非常に単純な、小泉さん以来の分かりやすさの政治の中では、そういう底深い知恵のようなものは消されていくという感じがします。
●渡辺美智雄から学ぶ保守の知恵~改憲の文字が消えた日~
私が思い出すのは、ちょうど2000年に、参議院で憲法調査会というのが開かれまして、そこに参考人として私が呼ばれた。護憲派の立場で私が、改憲派の立場で西部邁さんが呼ばれたのですが、田中秀征さんが自民党の議員になってまもなく、自民党の綱領の中から改憲の文字をはずそうという努力をすることがあるのです。
そのとき、金丸信さんが幹事長で、渡辺美智雄という、今の渡辺喜美のお父さん、石原慎太郎たちと一緒に青嵐会を作った反共タカ派のばりばりで、渡辺美智雄さんはその中心になっていた。そういう中で、その渡辺美智雄という人を説得しなければ、改憲の項目を新しい自民党綱領の中からはずすことはできないということで、田中さんは渡辺美智雄に体当たりするわけです。
すると、渡辺美智雄は意外にも、「最初は気に染まない嫁をまわりから押し付けられて、しぶしぶもらった。しかし、ちょうど戦後40年経っていた。40年経って、その嫁も立派な子も産んでくれたし、最初は嫌いな嫁だと思ったけれども、段々その気持ちも変わってくる」と。嫁さん、つまり憲法は変えなくてもいいと思うようになったと、渡辺美智雄は言ったわけです。
田中秀征さんはびっくり仰天して、これが保守の知恵なのだなと思った。だから一度、自民党綱領の中から改憲の文字が消えたことがあるわけです。
私は、その田中秀征さんと渡辺美智雄さんのやり取りを紹介しながら、当時の参議院の自民党憲法調査会の会長が村上正邦という人で、議員は自民党議員がほとんどだったわけですが、その中で、「みなさん方もこの渡辺美智雄さんの知恵に学んでほしい」と言って、委員会の雰囲気はだいたいいい方向に流れた。
そのときに、世耕弘成という、今の安倍さんの側近の若い議員が手を挙げて、「私たちは、先輩のそういうあいまいな部分も変えていきたいのです」と言ったわけです。私に言わせれば「抜かしやがった」という感じです。私がせっかくこういう雰囲気を作り上げたそのときに、あぶないなという感じがし...