●悲観論に突き動かされる「安全保障」
皆さん、こんにちは。今回は「悲観論」と「楽観論」について、話してみたいと思います。
国際政治は、経験則上、どうしても悲観論に支配されやすいと思います。その上、メディアは悲観論を煽るようなネガティブ報道に偏る傾向があります。国内政治が国民の不満を外に向けようとして脅威や危機を煽ることもあります。冷戦終結直後の一時期を除いて、あらゆる「いま」において世界は危険に満ちていると言われ続けてきました。
2013年12月に閣議決定された「国家安全保障戦略」では、安全保障環境が一層厳しさを増しており、日本は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面しているという指摘がなされています。こうした認識は、二つの構造的な変化、あるいは時代の潮流によって強まっていると思われます。
第一に、グローバル化や技術革新に伴う負の側面です。例えば、国際テロ、大量破壊兵器の拡散、海洋や宇宙空間やサイバー空間におけるリスク、貧困や格差、感染症や気候変動、食糧・エネルギー・資源問題、さらには経済危機、金融危機、そして難民問題などです。
第二に指摘できるのは、国家間の地政学的な対立と緊張です。例えば、北朝鮮の核・ミサイルの開発、中国の軍事力強化と海洋進出、ロシアのクリミア併合とウクライナ東部への介入、米中貿易戦争、アメリカとイランの対立、中国と台湾の関係などです。特に、貿易のみならず経済や軍事をめぐる覇権争いが米中間でも激化しているため、「新冷戦」の幕開けだという指摘もなされているほどです。
このようにして、安全保障というのは悲観論に突き動かされる傾向があります。たしかに、北東アジアや中東・ペルシャ湾の動向は、地域の緊張を高め、軍事衝突の危険さえはらんでいます。歴史に根差す不信感や高まるナショナリズムは、和解や協力よりも反目や対立を生みがちです。
●平和と安全、経済繁栄を享受してきた東アジア
しかし、その一方で日本を含む東アジア諸国は、歴史上戦争が最も少なく、そして大国間の戦争がない時代に生きているとも言えます。東アジアでは第二次大戦後、朝鮮戦争(1950年~1953年)、中印国境紛争(1962年)、ベトナム戦争(1964年から1975年)、中ソ国境紛争(1969年)、中越戦争(1979年)などが起きましたが、それ以後、大きな戦争は起きていないということです。
また、極度の貧困(一日1.25ドル以下で生活)にあえぐ人は、中国を中心に過去15年で半減しました。東アジア諸国は競うように経済成長を求め、経済の相互依存が高まって、所得の上昇により膨大な中間層が生まれてきました。人口6億人の東南アジア10ヵ国(ASEAN)の中間層・富裕層(1年の家計所得が5000ドル以上)は、2020年には2008年の倍の4億人に達するといわれています。
日本では、中国崩壊論がもてはやされてきましたが、世界経済の波乱のなかでも高い成長を維持した中国は今や日本の3倍の規模に迫る世界第二の経済大国となっています。日本にとっての最大の貿易相手国は今や米国ではなく、中国です。東南アジアでは、ヒト、モノ、カネを自由化する「ASEAN経済共同体(AEC)」が発足しました。現在、東アジアは世界経済を牽引する成長センターです。そして、世界から人材や資本や技術が流れ込んでいます。
拡大する中国市場では、安全や品質が消費者の行動を決定し、多くの日本製品が高い信頼を勝ち得ています。若者はネットや口コミでつながって、日本のポップ・カルチャーに熱中します。
もちろん中国のプロパガンダや情報統制は強力ですし、全国に張り巡らされたAIや監視カメラ網による統制のため、反体制的動きは封殺され、共産党統治が強化されていることも事実です。しかし、多くの市民は自由やプライバシーよりも物質的豊かさを優先しているように見えます。
こうした社会の現状は、経済成長が鈍化し、雇用や収入に悪影響が出れば、変化する可能性もあると思います。それを回避するためにも、中国共産党政権は安定した経済成長を維持する必要があるわけです。さもなければ、国民の不満を外に向けるために、上からのナショナリズムに頼らざるを得なくなるかもしれません。米中貿易戦争は、そうしたリスクを増大させているともいえます。
●「ゼロ・サム」と「ウィン・ウィン」が並存する現状
このように、東アジアには、政治の威信と軍事の優勢を求めるゼロ・サムの流れが存在する一方で、経済の発展と社会の繁栄を求めるウィン・ウィンの流れも続いています。また、急速に進展するグローバル化と情報化は、経済の統合と攪乱、経済成長と所得格差、価値や文化の共有と衝突といった、相反する状況を生み出しています。どちらの流れが主流となって、どちらの状況が優勢となるのでしょうか。
それには詰ま...