●復員船の記録に見る日本人の伝統的企業観
私は若い頃、復員船というものの記録に非常に興味があって、復員船の記録について映画のドキュメンタリーのような形のものを作ったことがあるんです。それで舞鶴へずっと通っていたことがあるのですが、当時そこには厚生省の復員局の生き残りがまだたくさんいて、その人にいろんなことを伺ったんです。
非常に印象深いことですが、本来なら舞鶴へ帰ってくるところを、多くの人はいつ帰ってくるか分からない。必ず「帰りますから」なんていうことではないわけですから。いつ帰ってくるか分からないから、波止場でいつも、主人が帰ってくるんじゃないか、お父さんが帰ってくるんじゃないかと、じっと待っている。そういう人もいるんですが、ほとんどの人は生活をしなければいけないから、そんなところまで来ないわけです。
復員船が着いて、ぞろぞろぞろぞろと戦地から帰ってくるんだけど、要するにそこには誰もいないのです。そこで、そこから自分の故郷へ帰るというときに、復員名簿というものを作らなきゃいけないから、1人1人前に座ってもらって、そこに書くわけですが、「これからどちらへ?」と聞くと、多くの人がこう言ったというんです。「まず、会社へ行ってみたい」。自分が勤めていた会社へ訪ねていって、それから自分の家へということです。そこで、「自分の家へ先に行くんじゃないんですか」と尋ねると、「いや、まず会社というものがどうなってるか気になるから、会社へ行ってから」と答えるというのです。
これは何を表しているのかというと、安堵感、安泰感の基本が企業にある、つまり自分の勤めている会社にあるということです。私は、日本人の伝統的企業観には会社から得ている安堵感、安泰感がものすごく強くあって、これこそが明治のお雇い外国人が「こんな勤勉な人たちはいない」といったことに表れているのですが、勤勉な労働姿勢というものの一端はそこにあるんじゃないかと思っているんです。
●自然が育んだ安堵感や共生観が日本人の勤労の根っこ
そういう意味で、安堵感とか安泰感というものには、われわれが自然から得ている優しさとか、何かわれわれを育んでくれているようなもの、つまり、私はあまり好きな言葉じゃないけど、現代の皆さんが使っている「癒し」というようなものもあるんじゃないか。だから、そういう観点で、安住の地として自分のふるさとというものを見ているんじゃないでしょうか。
さらにもっといえば、安住というのは、パッと庭へ出てみると、もう十年一日の如く、自分の3代も4代も前から見ている風景というものがあって、隣を見れば隣の家も何代も続いているということです。ともに生きていくという共生観がそこに育まれてくるということになるんです。
ですから、人間の勤労観の中に、ともに生きるという共生観も入っています。今、どうしてそんなことを言っているかというと、こういうものを今、経営者も、それから人事の担当者も意識しないから、それがどんどんどんどんと失せていっているわけです。また、どういう理屈でそう言っているのか分からないけれども、そのことを要するに「悪いものだ」「良くない」「旧態依然としたものだ」と言っているというところがあるんです。
しかし、旧態依然としているのは、そんなところを指すわけではないんです。明治の転換から来ている合理性というものを履き違えていることが大間違いで、日本の会社というものは、そうじゃない。半分、自分のふるさとのような役割を果たしている、そういう安堵感・安泰感の大きな根っこというものを持っているんです。
例えば肝っ玉母さんのような人がいて、「何も心配しなくていいんだよ。自分の思い通りに、思う存分やってりゃいいんだよ」という。また、「何か心配事があるの?」といって、「いや、今ひとつあって」と答えると、「言ってごらんよ。何でも、そんなもの解決してやるから」と返ってくる。「実はこうこうこうで」というと、「ああ、そんなの簡単だ。それじゃ、こうこうこうやって、こうやるんだよ」と返ってくる。「ありがとうございます。これで1つ悩みがなくなりました」、ということになる。会社というのは、そういう肝っ玉母さんのような場所でもあるということです。
●明治以来の西洋の技術は、日本の伝統的概念との融合で考える必要がある
それは全部、日本という風土から来ているから、離れようにも離れられないんです。ということは、窓を開けると、時たまはいいけど、ずっとビル群しか見えないというよりは、昔の里山の風景が見えるとか、そういうほうがよっぽどいいじゃないかという概念があるということです。そのことをもっと大切にすると、近代化とはいったい何なのか、新しくするとはいったい何なのか、ということをもっと...