●緊張と繁忙の最中に降りかかった別の大役
江口 『人間観』(『人間を考える―新しい人間観の提唱―』)の仕事をしている最中、突然松下幸之助に「わしが書いた『PHPのことば』という本を知っているか」と言われました。繁栄や幸福などについての松下幸之助の考え方が書かれた、かなり分厚い本(昭和28年刊行)です。
「知っています」と答えると、「あれの改訂版を出そうと思う」と言う。「はい、分かりました。研究本部に言っておきます」「いやいや、君が読んでどこを直したらいいか、教えてくれ。時代も変わっとるやろう」という。それは昭和23~24年から連載されていた話ですから、時代は変わっています。「闇市」などの記述も出てくるので、そういうところは修正しないと、そのままでは分からない。そういう改訂の方向付けを「あんたがやってくれ」という。
こちらは、それでなくても『人間観』をずっと二人で読み合わせた後、会社に帰って修正するので、毎晩10時~11時くらいまでかかっていました。もちろん最初で、緊張もしていました。向こうは「君、忙しいやろ」と言いながら、「『PHPのことば』の改訂版をやってくれ」と言ってくるので、心中「なんたるこっちゃ」と思いました。
どれだけ忙しいかも分かっているくせに、なんで私に…と思いましたが、松下幸之助からの「神の声」ですから、やらないわけにはいきません。
●通常業務の後、徹夜で取り組んだ『PHPのことば』
江口 その日その日の原稿修正が終わってから取り掛かるので、1週間くらいはほとんど徹夜でした。改訂版ではなく感想文だったら、飛ばし読みをしながら、「これはこういう内容です」と説明すればいいので簡単です。しかし、「君が読んで、直したほうがいい箇所を全部チェックしてくれ」ということなので、「てにをは」まで全部読まないといけないのです。
そのようなことで、1週間から10日間くらいは徹夜同然でした。『人間観』の原稿修正が終わり、調べものが終わり、それでも間に合わないときには、当時、非常に頭のいい、文章のうまい人がいて、この方に私の時間が足りない、力及ばないときには「助けてくれ」と言って、応援してもらいました。
夜中の1時くらいになってから、『PHPのことば』を丹念に読んでいく。それが分厚い本で、500ページ近くあるのを1行ずつ見て、「てにをは」まで直していかないといけない。「どれくらいでやったらいいですか」と聞いたところ、「1週間から10日間やな」と言われていたので、1週間から10日間でなんとか取り遂げたわけです。
●特別任務終了の果てに待っていた「置いとこう」
江口 ようやく作業が終わって、「ご指示いただいた『PHPのことば』の改訂版ができました。全部読ませていただき、私の感ずるところには印を付けておきました」と言うと、「だったら、君、その話を聞こうや」と言われました。
その日の朝9時から、私がチェックした箇所を説明していくのに、午前中いっぱいぐらいかかりました。幸之助は「そうか。そうか。そうやな」とうなずきつつ、「君はこう言うけど、ここはこのまま残しておこう」とか、「君の言う通りやな」とコメントをして、12時にやっと終わり、「これで、ええわ」と言われました。
「すぐに改訂版の作業を出版部に指示してよろしいですか」と聞いたら、「うーん、そやな。けど、これはしばらく置いとこう」と言う。「なんちゅうことなんやろ」と思いました。「1週間あるいは10日間で読め」と、人に徹夜同然でやらせておいて報告もさせ、「これでいいな」と言っておきながら、「改訂版を出しましょうか」「ま、置いとこう」と言う。
「置いとこう」と言うくらいなら、はじめから置いといてもらいたい。これは、なんという人使いの荒い、部下に思いやりがない人か、と内心ふつふつたるものがあったのですけどね。
●発見したのは「はい」「なるほど」ではない自分
江口 ところが、5日から1週間くらいたって、ふと自分で自分に気がついた。何に気がついたかというと、松下幸之助と問答している私自身に気がついたわけですよ。
先ほども言ったように、以前は「はい」「なるほど」「へー」「そうですか」と機械的に返しながら、手を入れていたのです。ところが、幸之助が「これはこうだ」と言うのに対し、「いや、これはこういう考えがあるのではないですか」とか「『PHPのことば』ではこういうふうに言われていますよ」「その辺は、整合性をお考えになったほうがいいんじゃないですか」というふうに、私は結構内容のあることをしゃべるようになっていたのです。
しゃべっている自分を発見したときに、「そうか。松下幸之助さんは、『PHPのことば』の改訂版を出すことが目的ではなかったんだ。私に勉強させようとしていたんだ」と分かった。「わしの考え方...