●地域勢力との関係と織田信長の「戦争」
前回は、織田信長が中央において朝廷や宗教(寺社)勢力の保護に努める存在だったというお話をしました。続いては、各地の大名や国衆とはどうあったのだろうかという問題が上がってくるかと思います。
一般的に信長は、やはり「天下布武」という言葉から、地方の大名や国衆などの存在を打ち滅ぼして国内を一つにしていくようなイメージが持たれています。いわゆる「天下統一」という視点から、その関係が考えられてきたかと思いますが、実際にはどうなのか。
このことは、信長の「戦争」というところにも関わってきます。戦争という視点で信長を見ていくと、信長の戦争も当時の戦国大名たちと同じ要因から行われていたことが分かっています。
信長の勢力圏である「領国」を維持していくにあたっては、いろいろな領土問題が起きてきます。そうしたなかで、領土の解決や維持を行うために信長が選んだのが「戦争」という道だったということです。
ただし、注意してほしいことがあります。これまでに述べたように、信長は「天下人」としてあるということです。そのなかで、信長を天下人として認めない勢力はどうしていったかというと、信長に敵対するためにかつての天下人だった足利義昭を擁していきます。
つまり、信長の戦争は、戦国大名と同じように領土問題に端を発しつつも、もう一つ、足利義昭との関係のなかで起きていたわけです。そうした背景のもと、例えば天正四(1576)年には安芸の毛利氏や越後の上杉氏と対立していく。さらに、それ以前から対立していた甲斐武田氏との戦争も展開していくということになってきます。
●大名や国衆と共存する天下の在り方を描いた織田信長
こうしたなかで戦争が行われていくわけですが、信長は全ての物事を戦争によって解決していこうとするスタンスで進んでいったのかというと、決してそうではありません。その一方でもう一つ、注目していただきたいのは、信長が各地の大名や国衆と通交を行っていたことです。
つまり、領土問題が発生しなければ、あるいはうまく収まるようであれば、信長と大名や国衆という存在は共存し合える事態もあったということです。実際、信長は、そういった大名や国衆との通交を重んじていくスタンスを取っています。
このことから見えてくるのは、従来の私たちのイメージに刻まれた「同時代の大名や国衆をつぶして、自分の勢力圏として日本を一つにしていく」という信長像ではありません。大名や国衆と共存していくという信長のスタンスから捉えれば、戦国時代にあった日本の天下や国家という複合的な構造を信長は否定するのではなく、むしろそれを前提に国内をまとめていこうとしていた、という見方も出てくるわけです。
当時の人々は、信長が進めていた事業を「天下一統」と呼んでいます。これには、天下が拡大したのか、それとも天下の下に一つのまとまりができてきたのか、という二つのとらえ方があります。私は、その実態から見ていくならば、天下の下に一つにまとまっていく動きだったと思います。
戦国時代にあった天下や地域国家という複合的な存在を否定するのではなく、けれどもそれらがバラバラにあるのではなく、天下というものの存在の下で一つにまとまって活動していく。そういった状況を信長は作り上げようとしていた、ということが分かってきています。
●大坂本願寺の勅命講和で「畿内静謐」が訪れる
では、それにあたって信長はただ通交だけを手段としたのか。要するに、「仲良くしていきましょう」というやり取りだけで進めていったのかというと、そういうわけではありません。
天正八(1580)年、信長はこれまで敵対してきた大坂本願寺を「勅命講和(天皇が和睦を進める)」によって降伏に導いていきます。
ここで注目していただきたいのは、大坂本願寺というものが弾圧されるのではなく信長の保護下に入り、宗教勢力として活動していくことになっていった点です。前半でもお話ししたように、信長が寺社勢力を保護するスタンスであったことが確認できるわけです。
では、これによってどういうことが達成されたのかというと、大坂本願寺は、京都の周辺で唯一信長に敵対する勢力でした。それが、降伏して信長の保護下に入ったということは、信長自身、「畿内静謐」という言葉を使っていますけれども、天下という地域が鎮まった状況になるわけです。
こうして、信長の下で、天下が鎮まる状況になったわけですけれども、では、次は何に当たらなければならないのか。天下は鎮まりましたけれども、地方に目をやると、まだ大名たち、あるいは大名の下の国衆たちは、自分たちの領土の維持のために戦いを続けている状況にあ...