●第一次世界大戦下で猛威を振るったスペイン風邪
もう一つの例は、スペイン風邪ですね。スペイン風邪の発生地に関しては諸説ありますが、カンザス州のファンストンという米軍基地が有力です。1918年3月に基地内の診療所で発熱・頭痛を訴える患者が殺到しました。1000人以上がこの病気に感染して、その時の記録では48人が亡くなっています。
発病した兵士は、豚小屋の清掃担当だったようです。ファンストンという土地は、カナダからガンが大量に飛来する越冬地です。ガンが運んできたウイルスが豚に感染し、豚の体内で変異して人に感染するようになったというのが今の解釈です。第一次大戦の末期に、欧州戦線に派遣されたアメリカ兵から欧州全体に波及し、アフリカにまで広がりました。特に1918年8月頃からはるかに毒性の強いウイルスが蔓延しました。ダーウィンの法則の通りに環境適応して毒性が強化されたのです。
スペイン風邪という名前である理由は、第一次大戦中に多くの国が情報統制を敷いたことにあります。自国で流行しているなどとは絶対にいえませんでした。しかし、スペインは中立国だったので、その統制が比較的緩かったのです。スペインで流行しているとさんざんメディアで報じられたので、スペイン風邪という呼称が定着してしまいました。後でスペインが不名誉なので呼称を変えるよう申し立てましたが、なかなか変化しません。
この時期は第一次世界大戦の末期でした。第一次大戦が勃発したのは1914年の夏ですが、当時は半年もすれば終わると皆思っていました。ところが第一次大戦は革新的な技術が用いられた大戦でした。機関銃、戦車、毒ガスなどが用いられ、それらに対抗するために塹壕を掘ったため、膠着状態に陥りました。塹壕は湿気が高く非常に不衛生なので、赤痢や発疹チフスが蔓延しました。塹壕にこもっていた兵士は、塹壕足という凍傷と水虫の複合症に悩まされました。これがひどくなると、脚を切断しなければなりません。多くの人がこうした苦しい状況に3年半も置かれていたところに、このウイルスの感染が拡大したのです。
両軍とも半分以上の兵士が感染して、戦闘どころではない状況だったそうです。
興味深いエピソードとして、ドイツ軍の最高司令官であったエーリッヒ・ルーデンドルフの話があります。この将軍は、1918年7月にパリから80キロメートルのマルヌ川まで迫りました。ところが、そこで少し戦ったのち敗走しました。この戦闘に対して将軍が述懐するところによると、インフルエンザで弱り果てて武器もとれない状態だったそうです。
各国から参戦した兵士は、欧州戦線で感染して本国にウイルスを持ち帰りました。そのため、世界に一気に波及しました。スペイン風邪は1918年から3年にわたって感染拡大しましたが、18年には世界43か国の推計で約2360万人、19年には約840万人、20年には約280万人が亡くなり、犠牲者数は合計約4000万人といわれています。
●日本へのスペイン風邪の上陸と社会変革のうねり
日本には1918年10月頃に毒性の強まったウイルスが上陸したそうです。内務省衛生局が『流行性感冒”スペイン風邪”大流行の記録』という資料を残していますが、これによると国内感染者は2300万人で、犠牲者は38万6000人とされています。慶応大学の数量歴史学者の速水融氏の再集計によれば、犠牲者は45万人だそうです。
この内務省の記録にはさまざまなことが書かれています。当時は健康保険がなかったので、各都道府県が貧困層の対策に非常に力を入れました。社会が一丸となって、皆で資金を出し合って難局を乗り切ろうとする姿が、克明にこの記録に残されています。
このスペイン風邪への官民あげての手厚い対策の背景となったのは、第一次大戦によって成金が生まれ、貧富の格差が顕在化したことにあります。1918年には有名な米騒動が起き、1920年には日本で初めてメーデーが開催され、労働組合も組織されました。この大流行の被害者への社会的取り組みは、財閥や成金主導の社会のひずみを是正しようとする、社会意識の変化の現われとして位置づけられるかもしれません。この記録に描かれている弱者救済の社会運動の勃興は、来るべき大正デモクラシーの序曲だったのかもしれません。
日本は日清戦争と日露戦争で勝利を収め、さらに第一次大戦に参戦して、中国進出を果たしました。さらにはシベリア出兵まで行ったのです。こうした傾向に対する社会的な批判は激しいものでした。日本は国力を顧みずにシベリア出兵した結果、多額の出費を強いられたのですが、米騒動はこれに対する大衆の反発、騒擾といえるでしょう。当時、寺内内閣はこれにうまく対応できず、総辞職しました。その後、原敬が後継首班として推薦されました。原敬は旧南部藩という、賊軍の小藩の出身で、非常に苦労してのし上...