●歴史学を学ぶことに何の意味があるのか
皆さん、こんにちは。今日から数回に分けて、「歴史とは何か」について語ってみたいと思います。
皆さんの中には、マルク・ブロックという名前を聞いた方も多いかと思います。フランスの社会経済史の専門家で、第二次世界大戦中、ナチスに対するレジスタンスでゲシュタポに捕まり、処刑された人物としても知られています。マルク・ブロックは、現役の歴史家の時、自分の子どもからこのような質問を受けたことがあります。
「パパ、だから歴史は何の役に立つのか説明してちょうだい」。
これは、なかなか良い言葉であります。マルク・ブロックの子どもの問いは、私自身、何度か子どもの時に考えたことがありますし、大学の教師になってから、学生たちや社会人の方々からも聞かれたことがあります。基礎科学でも、物理学や化学などは何のために勉強するのか分かるが、歴史学を学ぶことに何の意味があるのか、という素朴だけれど実に真剣味を帯びた問いです。
また、イギリス人の歴史家にE・H・カーという人がいます。彼は岩波新書に入っている『歴史とは何か』という書物の著者ですが、歴史は絶えず進んでいく過程であると語ったことがあり、歴史家も過程を一緒に進んでいくと主張したのです。しかし、E・H・カーは、自身の専門であるソビエト・ロシア史の研究対象だったソ連邦が、あれほど簡単に、一瞬にして解体するとは思いもしなかったことでしょう。まことに歴史の悲喜劇というべきかもしれません。
●社会経済が歴史を考える重要な手がかりになる
歴史にどのように関心を持つか、どのように接近するかについては、私もそうですが、どの歴史家にもそれなりのこだわりがあるものです。物理学や数学などの自然科学とは違い、同じ対象を選んでも、歴史学の場合は異なるアプローチによって別の結論が出てくる場合があります。それは、何が歴史家の興味を引くかという点にも関係します。その関心は千差万別なのです。
先ほど紹介したマルク・ブロックは、1929年に友人のリュシアン・フェーヴルと一緒に、『社会経済史年報』という雑誌を公刊します。年報のことをフランス語ではアナールと言うため、「アナール派」という言葉ができました。
アナール派とは、従来の歴史学が政治史に偏重していることを戒め、歴史の全体的な姿、全体史を追求したフランスの歴史家の流れです。歴史の基礎は社会経済史だという考えに立ち、新しい歴史学を唱えました。言い換えれば、歴史が人生を考えることや人について関心を抱くことと無関係ではないという立場を採ったということです。
確かに、人は貨幣なしでは生きていけませんし、食物や住居なしに生きることもできません。その意味では、社会経済が歴史のあり方を考える重要な基礎、手がかりになるというのは、まことにもっともなことです。実際の人々の生活に身をかがめて事柄を見なければ、過去を正しく理解できないという事実もあるのです。
●歴史的研究での推測や考証は大事な知的挑戦だ
ところで、ひょっとすると日本だけでなく世界各地でもそうかもしれませんが、現在の日本には、歴史の専門家たるものは、過去や現在から超越して、あたかもギリシアのオリンポスの壮大な神々たちと同じように、戦争の責任問題や犠牲者の数といった微妙な問題についても、客観的に(この客観的という点が大事なのですが)評価できると信じている人々もいます。
他方、これとは別に、基本的には実証を旨とする歴史家の中にも、道徳観や倫理観、政治や社会に関する自分の信念や考え方を歴史的事実と結びつけて語る人もいます。こうした傾向が甚だしい歴史思想家の場合、自分のイデオロギーや思想信条にそぐわない数字や材料を切り捨てることに全く痛痒を感じないようです。
しかし私は、そのように単純に考えることはできないと思います。どの歴史家もそうですが、私もまた立場の差を越えて、このように考えます。たとえ試行錯誤や単純な過ちであっても、結果的には幻想であっても、推測や考証というのは大事な知的挑戦であり、その結果こそが歴史学研究のあり方の一つだと思うのです。
●歴史家は事件の意味を理解し、事件を確証する
歴史という言葉は日常当たり前に使われます。皆さんも毎日のように聞いているかもしれません。歴史に当たる各国の言葉は、おそらく人間が生きてきた時間と同じくらい古い言葉でしょう。マルク・ブロックは、歴史とは、時に嫌になるほど古い言葉だと語っています。
そのような歴史を、もし事実によって知ろうとするならば、まず疑念、疑問やこだわりを持たなければなりません。それらがなくては、謎や未知に包まれた歴史の森に分け入ることはできないのです。また、歴史を知るには、手続きが必要...