●多元的要素を解析すると同時に、全体を俯瞰する
皆さん、今日は、素朴な善悪二元論だけで歴史を語ることに対する私の疑問について、引き続き語っていきたいと思います。
全体として、歴史のプロセスをあまりにも単純化して、論理的に整理・整序し、案配をつけていく説明は、素朴な認識論にすぎないことが多いように思われます。歴史のある断面を説明することはできますが、必ずしも歴史を複雑性や多様性において捉えることにはなりません。
言い換えますと、歴史とは混交性や全体性で成り立つもので、そこに含まれるのは多元的な要素です。歴史家は、多元的要素を物質の分子を扱うように慎重に個別解析・分析していくと同時に、全体の模型を俯瞰する視点を併せて持つ必要があります。
例えばかつて、明治維新このかたの日本近代史は悪の連続である。したがって、それ以降の日本史は、自分は認めないと語った歴史家がいました。他方には、侵略戦争や植民地支配の負の現実を忘れがちな立場の人たちもいます。いずれも、歴史の決定要因の複合性を解釈できていません。あまりにも歴史を単純化しています。
日本近代史が悪の連続だという考えを突き詰めていくと、明治維新以前の日本史はグローバリゼーションや世界のマーケットから切り離されていたわけですから、「日本史だけ見ていればよい」「それまでの日本史は幸せだった」という主張にもなりかねません。本来、明治維新以降の日本史とは、世界と結びつくことによって、さまざまな化学反応を起こしてつくられてきたのです。そうしたことを、「悪の年代記」という解釈だけで捉えることはできないのです。
また、日本の中国大陸への進出、日中戦争へ至る道、さらに朝鮮半島の支配と植民地化など、日本の歴史には、現代にも多くの問題を残している事象があります。こうした事象をあたかもなかったかのようにしたり、見ようとしないというのもおかしなことです。「歴史とは、多くの決定要因がある複合的なものだ」ということを前提に考えなければならないのです。
●イスラム国の主張はイスラムの一断面でしかない
私の専門に近い「現代イスラム」についても考えてみましょう。例えば今、「イスラム国」という現象があります。
イスラム国家はカリフの下で一つの共同体をつくっていた。その共同体が、教団=国家である。そのような立場からイス...
(フランス画家・ 1886年)