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奴隷制も復活? 歴史学の作法に適わないイスラム国の主張

『歴史とは何か』を語る(5)ある断面から全体を語れるか

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
ギュスターヴ・ブーランジェによる『奴隷市場』
(フランス画家・ 1886年)
「イスラム国」の考え方は明らかにおかしいと、イスラム研究の第一人者・山内昌之氏は言う。「複合的な見方」がないからだ。それは一体何か。『歴史とは何か』を語るシリーズ・第5回。
時間:11:46
収録日:2014/10/21
追加日:2015/07/23
≪全文≫

●多元的要素を解析すると同時に、全体を俯瞰する


 皆さん、今日は、素朴な善悪二元論だけで歴史を語ることに対する私の疑問について、引き続き語っていきたいと思います。

 全体として、歴史のプロセスをあまりにも単純化して、論理的に整理・整序し、案配をつけていく説明は、素朴な認識論にすぎないことが多いように思われます。歴史のある断面を説明することはできますが、必ずしも歴史を複雑性や多様性において捉えることにはなりません。

 言い換えますと、歴史とは混交性や全体性で成り立つもので、そこに含まれるのは多元的な要素です。歴史家は、多元的要素を物質の分子を扱うように慎重に個別解析・分析していくと同時に、全体の模型を俯瞰する視点を併せて持つ必要があります。

 例えばかつて、明治維新このかたの日本近代史は悪の連続である。したがって、それ以降の日本史は、自分は認めないと語った歴史家がいました。他方には、侵略戦争や植民地支配の負の現実を忘れがちな立場の人たちもいます。いずれも、歴史の決定要因の複合性を解釈できていません。あまりにも歴史を単純化しています。

 日本近代史が悪の連続だという考えを突き詰めていくと、明治維新以前の日本史はグローバリゼーションや世界のマーケットから切り離されていたわけですから、「日本史だけ見ていればよい」「それまでの日本史は幸せだった」という主張にもなりかねません。本来、明治維新以降の日本史とは、世界と結びつくことによって、さまざまな化学反応を起こしてつくられてきたのです。そうしたことを、「悪の年代記」という解釈だけで捉えることはできないのです。

 また、日本の中国大陸への進出、日中戦争へ至る道、さらに朝鮮半島の支配と植民地化など、日本の歴史には、現代にも多くの問題を残している事象があります。こうした事象をあたかもなかったかのようにしたり、見ようとしないというのもおかしなことです。「歴史とは、多くの決定要因がある複合的なものだ」ということを前提に考えなければならないのです。


●イスラム国の主張はイスラムの一断面でしかない


 私の専門に近い「現代イスラム」についても考えてみましょう。例えば今、「イスラム国」という現象があります。

 イスラム国家はカリフの下で一つの共同体をつくっていた。その共同体が、教団=国家である。そのような立場からイスラム法を純粋に貫いていけば、7世紀のイスラムにおいては奴隷も性差別も認められていたのだから、イスラム法の復活とともに、奴隷制度や性差別をも復活して何が悪いのだ。イスラム国はこのように主張しています。つまり、全員平等、男女同権といった西欧的な民法の考え方は外来的要素で、イスラムは従う必要がないという論理です。

 このような考え方は、明らかにおかしいものです。なぜかというと、歴史におけるイスラムの発生のある面を極端に強調し、純化しているからです。イスラムが3大陸に広がり、現在も地球上で多くの信者を獲得しているのは、その断面が支持されているからではありません。例えば、税制面において非常に合理的で、キリスト教やユダヤ教といった共同体の信仰を保障する寛容性を持っていたために、イスラムは当時のビザンツ帝国やササン朝イランの厳しい支配の下で重税にあえいでいた人たちに歓迎されたのです。

 ですから、今注目を集めるイスラム国のジハーディズム、聖戦を正当化し、テロや暴力も合法だと言い募る手法への私の批判は、単純な善悪二元論から申しているのでは全くありません。歴史学の基本的な手法として、複合的な見方が必要だということを語りたいのです。そうした手法をとらずに、イスラムのある断面をいびつに代弁するだけのテロリズムを、さながらイスラム史の全体模型、イスラム法の有力な模型であるかのように語るのは、少なくとも歴史学の基本的な作法にかなっているとは言えません。


●広角度から多元的に事象を相対化する視点が必要


 こうした意味で、東京大学名誉教授にしてハーバード大学でPh.D.をとった、もともと私の同僚だった中村廣治郎氏のすこぶるバランスの取れた見方がイスラム研究では参考になります。

 中村氏は、『イスラムの宗教思想――ガザーリーとその周辺』という岩波書店から2002年に出された本の中で、アブー・ハーミド・ガザーリーという人物を取り上げています。ガザーリーは、信仰と学問の関係で懐疑論や精神的な葛藤に悩んだ人であります。11世紀から12世紀にかけて生きたガザーリーの精神的な苦悩や変容を学ぶことで、私たちはいろいろと知ることができます。

 宗教を信じる、神を信じるという領域と、理性的に現実を見ようとする手法としての学問との関係は、いつの時代においても、イスラムに限らずどの宗教においても、説明に苦労...
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