●徳川家康が第一に学んだのは文治政治への転換
これから第一回ですが、ちょうど日本のある種、近世というものを導入した主役が家康で、これは今、世界的にも著しく成功したというケースになっているような名転換期を演出したのが、これから読む家康です。さらにその家康が何にすがって、何を基本として学び、その近世への転換をうまく実現したのかといえば、これはもう、『貞観政要』の他にはありません。『貞観政要』を読んでいたわけです。
では、家康は『貞観政要』から何を学んだのかというお問い合わせに、あらかじめ答えておこうと思います。まず『貞観政要』から家康が学んだ第一としては、武断政治から文治政治への転換です。要するに、家康のすごさというのは、もう戦争で事を決着する時代ではないということです。これは何といっても、頭脳の勝負で、戦略の勝負、人格・教養の勝負の時代にならなければいけないと、このように思ったということです。
家康から考えて、戦国時代とはいつからになるかというと、これは応仁の乱からといわれています。ですから、1467年からとなります。1467年から、どこまでが戦国時代なのかというと、いろいろな説がありますけれど、大方の歴史家でコンセンサスが取れているのが、足利義昭という人が織田信長に追われて、「もう室町政権はなくなりました」と言って白旗を揚げた、そのときまでなのです。これが、1573年。この間が110年ぐらいですね。
つまり同じ状況で110年間、ずっと戦国時代でした。その後、信長が立ったといいながらも、信長は全国統一をしきれず、それから豊臣秀吉が立ってもそれをしきれなかったのです。したがって、自分こそが唐に倣(なら)って、300年の長期政権をつくらなければいけないということで、まず家康が学んだのが、武断政治によって文治政治に変わるということです。
それから2つ目です。鯛は頭から腐るというように、古今東西の歴史を眺めてみても、敗れた国家には共通項が1つあります。いろいろなケースがありますが、1つ必ず敗れる原因というのがあるのです。これはトップがだんだん、傲慢、安逸になってくるのです。うまくいけば、うまくいくほど。不思議ですね。
トップの要注意点ということを、家康は本当にこれをよく知っていたし、それから代々の将軍すべてに、これは言い置いておかなければいけないという御法度です。この御法度をきちんと明確にしたわけです。
そして3番目です。社長を例にいえば、「おたくの会社は、社員さん、何人?」、「200名」。「ああ、そうですか。ああ、200名部下がおられるから、社長さんでいられるんですね」ということですね。また、「おたくは?」、「いや、残念ながら誰もいないんだ」。「それじゃ、社長じゃないんじゃないですか」と。「個人でやっているんじゃないですか」ということになりますね。
ですから、そういう意味で組織のトップというのは、トップのほうが主役ではなくて、条件を整えてくれているのは部下のほうだということを、いつも忘れてはいけないのです。ところが、だいたいこれを忘れてしまうのですね。部下が全部いなくなってから「しまった」というケースが多いのです。
●天下を取る前から臣下に『貞観政要』を読ませていた
そういう意味で、民の心というものが読めない、ステークホルダーの心が読めないトップは、まずダメだということになります。したがって、まず民ということをどう扱うべきかということを、(唐王朝の)太宗もよく分からなかったのです。そういうことで、トップに就いたら、このようなことを注意していただかなければならないということです。
そして傲慢になって、社長になった人が異口同音に言う決め台詞というのがあるのです。「今回、社長になりました田口でございます。これは社員さんがおられて、初めて社長、私がおるんでありまして、主役は全部社員さんで、ですから皆さん、社長室のドアはいつも開いておりますから、何か話があれば、どんどん言ってきていただいて……」と。それで「おお、今度の田口って社長は、なかなかいいね」、「おい、言いに行こうじゃないか」となって、翌日言いに行ったら、左遷させられた、と。そういう話ばかりなのですね。
それではしょうがないわけです。だからみんな、なんとなく「ああ言っているけど、方便で言っているんだろうから、本気にしてはだめなんだよ」。「ダメなんだよ」などと、老練の嫌な思いを何遍したベテランほどよく知っていて、「本気にするなよ」と下に言ってしまうから、結局、何も言ってこないということになるわけです。
それではだめだと、これは制度にしなければだめだというのが、太宗(唐の第2代皇帝)のすごいところです。つまりどうしたかというと、「はい、あなたは何部長?」、「経理...