●「ネット集合知」の理想と現実
―― もう一点、先生のご著書で印象深かったのが、アメリカ西海岸が象徴的だというお話しでしたけれども、ネットに対する性善説的な考え方です。なぜ、皆の知恵やデータを集めるのがいいかというと、「集合知」といって、皆の知恵が集まってきて、 最終的には「いちばん確からしいもの」が出てくるに違いない。だから、インターネットにつないで、さまざまな人の声を集めることは、すごく社会を発展させるものになる、という性善説的な集合知の考え方がありました。しかし、だんだん(時代が)進んでくるにつれて、特にトランプ政権の頃から、「陰謀論が広まってしまった」「Qアノンのようなものが出てきました」などと指摘されるようになりました。そして、それを信じてしまって、極端な行動に走る人たちも出てきてしまいました。それゆえ、「本当に集合知が正しいのですか」「性善説で良かったのですか」という疑問も出てきました。先生はこの問題についてどうお考えですか?
西垣 一般の人々が自由に発言し、討論しながら物事を決めていくことは、民主主義ですよね。こういう考え方からすると、インターネットやワールド・ワイド・ウェブ(WWW)というのは、どう見ても「良いもの」です。誰でも自由に発言できるのですから。
特に、私が西海岸にしばらくいた頃は、そのような夢やオプティミズム(楽観主義)が、わりとありました。それはそれで悪いものではないと思うし、Google社を設立した人たちにも、そのような理想主義があったと思います。
「集合知」には、「皆の意見をあわせていくと、理論的にも正確な答えが得られやすい」という根拠もあります。この考え方は、民主主義と合致していたのです。
ところが、そのような性善説に基づく楽観主義、特に2000年代半ばくらいに唱えられた「ネット集合知」は、残念ながら、2020年代にはいって「裏切られた」のが現状ではないでしょうか。
「皆が皆のことを考える」という性善説は公共性重視です。ところが、皆で討論し、衆知を合わせて良い答えを出していく、という方向性が次第に失われていった。今ははっきり言うと、ネットが「他人を攻撃するツール」として使われている。
民主主義では、自分と異なる意見に耳を傾けて、互いに理解する努力をしあって、そして合意点を見つけていくという手続きがなければいけません。...