中世から明治に至る日本は中央集権を嫌い抜く世界であった。律令制は摂関政治でなし崩しになって荘園が誕生し、それが武家の時代へとつながっていく。“私”権の拡大を第一義とする武家は、南北朝の頃も“私”の闘争に明け暮れていた。それは、大陸を侵略しようとした頃の秀吉政権を除けば、明治維新期の王政復古まで続くことになる。(全7話中第4話)
※司会者:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●摂関政治から荘園の誕生にみる「分権」の強さ
片山 これ(国史の編纂状況)は、(日本が)中央集権ではないということの一つの証明です。自分が適当にやれるところをやって後はよろしくで、藤原氏や上皇などの“私”が政治を担当する。それで、なんとなく国が治っていればいいという分権の基本のようなことで、日本人そのものが「国の正しい歴史は中央集権にある」などというイメージは持っていない。
それを持っていたのは宇多天皇までです。宇多天皇は菅原道真を登用したことでも知られていますが、菅原道真がなぜ駄目になったかというと、藤原氏に陥れられたからです。
藤原氏に左遷されて怨霊になってしまったわけですが、藤原氏政権は要するに摂関政治と捉えられる。その後院政があって幕府の政治がある。長い日本の歴史を非常に乱暴に捉えると、そのような流れを考えることができると思います。
摂関政治における摂政・関白である藤原氏の経済的基礎は、律令体制の租庸調(国が集めている税)の中で、藤原氏が要職に就いているから、(つまり)高い役人の給料はみな藤原氏が持っている(もらっている)、だから藤原氏が経済力を持っている、ということではないわけです。
公地公民だったはずのものをどんどんとなし崩しにして、いわゆる日本史の大きなテーマである「荘園」が出てきます。“私”が勝手をやっていい土地というものを、お寺も貴族も皇族も増やしていって、それで食う。租庸調の上がりを国から分けてもらって、給料で食べるというのではない。
これが日本です。荘園はまさに分権の最たるもので、国の中に「公権力は入ってくるな」という場所をつくってしまうわけです。「不輸・不入(の権)」など、いろいろなことをいって公権力を入れなくしてしまう。
●荘園を守る武士の台頭
片山 その荘園を守らせるために「もののふ」というか武士が発達してしまう。武士たちはみんな皇族の子孫だとして「源平」を自称します。ただ人数が多すぎるから臣籍降下して、「源のナントカ」「平のナントカ」という一字姓を名乗っているのだという。
天皇の血筋を引いていて偉いはずの彼らは、実際は下級公家になっていて、やることがないのでいろいろな荘園を守るようなことをたくさん請け負う。守っている荘園の中には不在地主のようになっている...