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そもそも日本海軍を率いた山本五十六海軍大将からして、連合艦隊司令長官になった頃から、まるで人が変わってしまったのではないかと思えるふしがある。
山本五十六は非常に頭脳明晰な人物で、米内光政大将、井上成美少将(のち大将)とともに日独伊三国同盟の条約締結(昭和15年〈1940〉)に反対したことでも有名である。
アメリカ大使館付武官を務めたこともある山本大将は、もともと日米開戦には消極的だった。ところが連合艦隊司令長官になってからは、「開戦の劈頭(へきとう)、敵の主力艦隊を猛撃撃破して、米海軍と米国民をすっかり意気阻喪させる」ことが必要だと考えるようになり、真珠湾攻撃を立案・実行したのである。
当時、日本海軍は出撃してくる米艦隊を日本近海で迎え撃って撃滅する計画を立てていた。だが、山本五十六が「真珠湾攻撃ができないならば、自分は連合艦隊司令長官を辞める」と強硬に主張して譲らなかった。
開戦時には将兵の練度も砲撃の命中率も、圧倒的に日本海軍がアメリカ海軍よりも高かったといわれる。航空兵力の性能も練度も日本がアメリカのはるか上を行っていた。結果論ではあるが、もし真珠湾攻撃をしなければ、「日本は卑怯な騙し討ちをした」といわれることもなかった(もちろん、騙し討ちになったのは外務省のせいであるが)。また、日本近海にやってきた米太平洋艦隊を撃滅していたら、米国の士気は立て直せぬほどに落ちたかもしれない。
だが山本大将はバクチのような乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦に賭けた。その信念は提督として立派だったかもしれない。だが、海軍内部に真珠湾作戦への不信が渦巻く中での作戦決行になってしまったことが、画竜点睛を欠く結果をもたらすことになってしまう。
そうなったのは、山本大将の人事が悪かった。彼の部下である一航艦司令長官の南雲忠一中将は、本来、真珠湾攻撃に反対だったのだ。そもそも海軍がロンドン軍縮条約をめぐって「条約締結やむなし」とする条約派と、「条約は断固締結すべからず」と主張する艦隊派に分かれて派閥抗争に陥ったとき、条約派の山本に対して、南雲は艦隊派の強硬派だった。お互いに遺恨があったことは否定できず、当然、息が合うはずもない。本来、山本大将は、自分の方針に反対している人物を艦隊司令長官のような要職に就けてはならなかった。また南雲中将は、昭和16年(1941)12月頃にはかつて大佐だった頃の元気がなくなっていたという人もいる。
当時、連合艦隊参謀長を務めていた宇垣纏(まとめ)中将は、自身の綴った陣中日記『戦藻録』で、南雲機動部隊によるハワイ攻撃の不徹底ぶりを、こう批判している。
〈機動部隊は戦果報告と同時に第一航路を執り、L點(てん)を經て歸投(きとう)するの電昨夜到逹す。泥棒の逃げ足と小成に安んずるの弊なしとせず。
僅に三十機を損耗したる程度に於ては、戦果の擴大(かくだい)は最も重要なることなり〉
(宇垣纏『戦藻録』〈原書房〉)
南雲中将は、「施設や工場は多少の爆弾では燃えない。ガソリンタンクは燃えるが、重油タンクは垂れるだけだ。石油タンクを破壊し、20万トン、30万トンの石油がなくなってもアメリカは平気だ」(日下公人・三野正洋『組織の興亡──日本海軍の教訓』〈WAC〉)と語ったという。しかしハワイには、アメリカが何年もかけて重油を備蓄していたのだ。これが爆撃されれば、アメリカの軍艦は半年ぐらい太平洋上に1隻もいることができなかったであろうと、戦後、アメリカ海軍のニミッツ提督は回想している(『ニミッツの太平洋海戦史』〈恒文社〉)。
これがアメリカ軍であれば、南雲中将は戦意不足でクビになっても仕方がない。もし石油タンクを攻撃しておれば、日本海軍の機動部隊が壊滅したミッドウェー海戦も、そもそも起こらなかったのだ。


