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先ほど、「『あの当時、相手側が何をしたのか』をきちんと書かないと、『戦争をしたがる日本人がどんどん堕落して馬鹿な戦争を始め、彼らのせいで罪なき日本人が戦地で無残な死を遂げ、空襲で焼かれ、ついには原爆を落とされて負けた』という一方的な話になってしまう」と書いた。
とはいえ、もちろん「日本内部の問題点」を看過してよいということではない。あの昭和の時期において、げんに日本は敗戦したわけである。なぜ敗戦に至ったのか、その理由を見ておかねば歴史の教訓とすることはできないだろう。
それゆえ本書では、「相手側が何をしたか」「日本側がどう動いたか」という両面から歴史を見ていきたい。
日本側の問題点として、どうしても触れておきたいのが「ガッツ」の問題である。人間の知情意の働きを英語で表わす場合、人間の知の部分をつかさどるのは「マインド」で、優しさや情といったものをつかさどるのが「ハート」、そして「腹が据わっている」という意味での「腹」や胆力、根性といった部分が「ガッツ」である。
いまの教育では、マインドやハートは教えても、ガッツがある人間になることは教えない。だが日本でも、たとえばかつて日本の武士の世界では、いくら頭が良くて優しくても、ガッツがなければ話にならなかった。武士の教育の主眼は、「ガッツ」を錬成することにあったともいえる。
明治時代も、江戸時代の教育を受けていた人たちが第一線で活躍していた時代には「ガッツ」の面で優れた人々が多かった。しかし、日露戦争後、そのような人々が引退していくにしたがい、「ガッツ」はグングン希薄になってしまった。
改めて昭和史を見ていくと、偉くなった軍人はとにかく試験の成績が優秀な人だった。どれくらい成績優秀者だったかを、私の体験でご紹介しよう。たとえば陸軍のエリートの養成校だった陸軍幼年学校の受験資格があったのは、旧制中学1、2年生であった。私は旧制鶴岡中学校に通っていたが、陸軍幼年学校を受験する学生だけ授業開始が1時間早く、特別授業を受けていた。それでも私の在学中、私の中学から陸軍幼年学校に入った人は一人しかいなかった。それぐらい試験が難しかったのだ。
海軍士官を養成した海軍兵学校も、旧制中学の1番から3番以内でなければ受からないと昔からいわれていた。それはある意味で、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に合格することより難しい。一高には、近眼であっても運動神経が悪くても、筆記試験が良ければ入ることができる。ところが、海軍兵学校および陸軍士官の登竜門である陸軍士官学校は、東大並みの入学試験に受かる頭と、抜群の運動神経を持った人しか、入ることができなかったのである。さらにそういう身体健全な秀才の中のさらに少数の秀才が、陸軍大学校や海軍大学校に進んだのだ。
陸軍でも海軍でも、エリートになるのは筆記試験の成績がいい人が圧倒的に多いというのは、非常に危険な兆候である。頭がいい人イコール、ガッツがある人とは限らないからだ。現実に、先の大戦を見ても、たとえば海軍では艦隊司令長官クラスになると臆病な人が多かった。
たとえば第一航空艦隊(一航艦、通称「南雲機動部隊」)司令長官の南雲忠一中将は、昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃で戦艦4隻を沈めたが、第三次攻撃を行なわず、アメリカ海軍の重油タンクや工敞を攻撃せずに無傷で残してしまった。
レイテ沖海戦(昭和19年〈1944〉)では、第二艦隊司令長官を務めた栗田健男中将は、レイテ湾に突入せずに「謎の反転」を行なってしまう。
日本海軍と連合軍の重巡(重巡洋艦)艦隊同士が初めて夜戦を行ない、一方的な勝利を収めた第一次ソロモン海戦(昭和17年〈1942〉)もそうである。そのとき私はちょうど小学6年生で、父親と一緒に松島見物に行く途中、仙台駅に降りたときに第一次ソロモン海戦の臨時ニュースを聞いた。同海戦で、三川軍一中将率いる第八艦隊は、連合軍の重巡4隻を撃沈しその他3隻に損害を与えたが、自身の損害は重巡2隻損傷にとどまっている。圧倒的な勝利である。私も臨時ニュースを聞いて胸が躍った記憶がある。
だが、問題はそのあとだった。そもそも本来、この作戦の主要な目的は、ガダルカナル島の攻防戦に投入される敵部隊を輸送する敵輸送船団を撃滅することだった。日本海軍の艦隊はほぼ無傷だったため、海戦後、さらに第一目標だった連合軍の輸送船を攻撃すべきだという意見も出された。敵の護衛艦隊が壊滅したのだから、存分な戦果を上げることは間違いなかった。
あのとき輸送船を攻撃していれば約2万名のアメリカ海兵師団は窮地に陥り、その後のガダルカナルの戦局も大きく変わっていたことだろう。だが三川中将は、「夜が明けて空母搭載機の攻撃を受けるような愚...


