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一方で、イギリスはきちんと情報を分析していた。
そう考えていくと納得できるのだが、満洲事変が起きたあと、昭和7年(1932)に国際連盟がリットン調査団を派遣し、そこには団長であるイギリス人のリットン卿を筆頭に、5カ国から調査委員が加わっているのだが、彼らが作成したリットン報告書も、不思議なことに日本をあまり厳しく非難していないのである。
おそらくリットン卿は、現地における調査を重ね、張作霖爆殺事件や満洲事変における真相を知ったのだろう。だから、
〈問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について十分な知識をもったものだけがこの問題に対して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに、他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。なぜなら満洲においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ〉
(渡部昇一解説・編『全文 リットン報告書』〈ビジネス社〉)
と、リットン報告書は日本の立場をかなり認めているのである。
さらにいえば、リットン調査団が満洲を訪れる2、3年前に、あの『紫禁城の黄昏』が出版されていたら、何の問題も生じなかったと思う。
『紫禁城の黄昏』は、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の家庭教師だったイギリス人、レジナルド・ジョンストンの著書である。
ジョンストンは当時の世界的なシナ学者で、溥儀は彼を非常に信頼していた。ジョンストンは、昭和9年(1934)に出版された同書に、家庭教師時代から溥儀が満洲国の元首になるまでの皇帝周辺の事情や、清朝、中華民国における歴史的な動きなどを記している。
大正十三年(一九二四)に軍閥の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が起こしたクーデター(北京政変)により、溥儀は紫禁城を追われて北京内城にある醇親(じゅんしん)王府(北府)に住んでいた。ところが憑玉祥が北府に軍隊を差し向けてくる恐れも出てきたため、溥儀は、砂塵朦々(さじんもうもう)として警戒がゆるんだ風の日に、このイギリス人の家庭教師と一緒に逃げた。実は、そこが日本公使館なのである。
日本公使は当惑しながらも、溥儀一行を丁重に処遇した。その前後の事情を誰よりも熟知しているのがジョンストンである。彼は、
〈私はまず日本公使館へ向かった。そうしたのは、すべての外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れてくれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えることもでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ〉
(R・F・ジョンストン、中山理訳、渡部昇一監修『紫禁城の黄昏 下』〈祥伝社黄金文庫〉)
と書いている。
ジョンストンはまた、溥儀は紫禁城から追われたことも含め、「最も凶暴な敵に対してでさえ、今までただの一言も怒りや不平を漏らしたことがない」とも書いている。巨額の年金をもらえることになっていたこともあるが、しかしある事件をきっかけに「シナに対する皇帝の態度が変化した」という。
〈皇帝と満洲帝室が大惨事に見舞われて、深い悲しみに沈んだのは、私が威海衛にいた頃だった。シナ人の先祖崇拝や、漢人と満洲人の先祖の墓に対する深い畏敬の念を多少なりとも理解する者でなければ、その嘆きがどれほど深いものか、ほとんど計り知ることはできないだろう。帝室の御陵(北京の東方にある「東陵」)が、1928年7月3日から11日にかけて、破壊され冒瀆(ぼうとく)されたのである〉
(同書)
皇族の霊廟は非常に頑丈につくられていたため、犯人たちは爆薬を使って墓を暴き、宝石や貴重品を略奪した。ところが当局は、特別法廷で下級犯罪者に軽い刑罰を科したにすぎず、高位の軍人を含む首謀者を逮捕することはなかったのだ。
ジョンストンは続けて、
〈その時まで皇帝は、満洲に勢力が結集していることは知っていたものの、独立運動にはまったく関与していなかった。また、皇帝自身が先祖の故郷の満洲へ戻るよう誘われる可能性についても、まともに考えたこともなかった。(中略)だが、(中略)それまで自国と先祖を辱はずかしめたシナに向いていた顔を、3百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、満洲を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ〉
(同書)
とも書いている。
満洲は当時、「Noman’s Land(主のいない土地)」という言葉通りの不毛の地で、人口は少ないものの、「禁封の地」と呼ばれて漢人の入植が禁じられていたため、純粋な満洲人が多かった。この事件をきっかけに、溥儀は満洲に戻ることを...


