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このように、先の戦争をめぐって慨嘆したくなる事例はさまざまにある。「もう少し、このようにしてくれていたら」と思わざるをえないことも、いくつも数え上げられる。だが、そこに常に日本側の「悪」があったかのように解釈するのは、正しいことだろうか。
半藤氏の本を読んでいて非常に気になるのは、常に悪い指揮官が登場し、その人物のせいでこうなったというストーリー展開が多いことである。
たとえば昭和12年(1937)7月7日夜に、日本軍とシナ軍が衝突した盧溝橋事件が起きているが、そのとき日本軍は夜間演習をしていて、兵隊たちは鉄兜(かぶと)もかぶっていなかった。ところが夜10時半頃に日本軍が機関銃(空砲)を発射したところ、実弾の射撃を二度受けたのだ。
半藤氏はさすがに、天津駐屯の第一旅団第一連隊長・牟田口廉也大佐(のち中将)の「敵に撃たれたら撃て。断乎戦闘するも差し支えなし」(『昭和史』)という独断命令でシナ事変が始まってしまった、というのは早計だとしている。
だが半藤氏は、現地で9日に停戦協定が締結されたあとに、牟田口大佐が、
〈停戦協定を知らされ承知しながらも「中国側が協定を守るはずはない。危険性はかなり高い。その時に遅れをとってはいけない」と部隊に前進を命じたのです〉
(同書)
と書いている。
その結果、シナ軍が日本軍に向けて再度発砲し、それに対して牟田口大佐が攻撃命令を出したため、交戦状態に入ったのは事実だ。しかし、それをきっかけにしてシナ事変が「既定の事実として」(同書)始まったとするのはいかがなものか。
11日の午後2時からの閣議で「あくまで事件不拡大・現地解決を強調する」「動員後も派兵する必要がなくなったならば、ただちにこれを中止させる」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史 下』〈文藝春秋〉)ことが確認され、同日午後8時に、日本とシナの両代表は停戦協定に調印を終えている。結局、内地の三個師団の動員も中止された。つまり、この時点で日本とシナの軍事衝突は、一応は収まっているのだ。
その後、7月29日に北京東方の通州という町で、200人以上の日本居留民(朝鮮人を含む)が冀東(きとう)防共自治政府の保安隊に残酷に虐殺される通州事件が起きているが、それでも北シナの情勢は収まった。
ところが8月13日、上海の日本人居留民を保護していた日本海軍陸戦隊を、中華民国第九集団軍総司令官の張治中(ちょうじちゅう)率いる正規軍が包囲攻撃してきたのである(第二次上海事変)。日本政府はそれでもなお不拡大方針を掲げていたが、もともと2500ほどしか駐留していなかった日本海軍陸戦隊に対して、シナ軍は数万人規模で攻め込んで来たうえに、その後背には20万人規模の軍隊が動員されていた。さらにシナ軍は連日、航空機による爆撃を繰り返した。ここに至って日本は、上海に陸軍の二個師団を派遣することを決め、「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、もって南京政府の反省をうながすため、いまや断固たる措置をとるのやむなきに至れり」という声明を発表した。
戦闘は激しく、死傷者が続出し武器弾薬も不足したため、陸軍はその後も兵力を増強し、上海での戦いは11月上旬まで続いた。11月8日までの累計で、9115人が戦死し3万1259人が負傷するという大きな損害を受けたが、実はこれが敵の手なのである。シナ軍は、網の目のように張り巡らされたクリークを利用して日本軍を囲い込み、トーチカに設置した機関銃で一気に殲滅(せんめつ)する戦法で頑強に抵抗した。機関銃は当時世界一といわれたチェコ製である。
そこで陸軍は急遽、第十軍を編制して戦力を増強。11月4日、三個師団半からなる柳川平助中将率いる第十軍が杭州湾に上陸した。それは私が7歳の頃で、「日軍百万杭州湾上陸」と書かれたビラが飛行機で撒かれたという話をよく覚えている。第十軍は敵の背後に出たものだから、上海はすぐさま落ちた。あとは残党を追い払いながら南京まで兵を進め、一気に占領してしまった。
いわゆる「シナ事変」について最もわかりやすく書いてあるのは、ユン・チアンとジョン・ハリディの『マオ』(講談社)である。この本は明快に、なぜこの事変が本格的な戦争にならざるをえなかったかを述べている。シナ事変の頃の私の記憶とも大筋で一致しているのだ。「日中戦争」は明らかにシナ側が始めたのである。



『支那事変二周年記念』の記念印を押印した郵趣品