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われわれが忘れてはならないのは、すでに大正11年(1922)にはロシアに共産党政権ができていて、共産主義を世界に広げるべく活発な活動を行なっていたことだ。
大正6年(1917)のロシア革命で成立したソビエト連邦は、さらに革命を世界に広めていくことを真剣に模索した。そのための機関がコミンテルン(共産主義インターナショナル〈第三インターナショナル〉)である。当初、コミンテルンが目指したのはヨーロッパ、とくにドイツにおける共産革命であった。だが、第一次大戦後、ドイツで共産革命を目指したスパルタクス団が暴動を起こすものの失敗し(1919年)、指導者のカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクが殺害されるに至って、この路線は完全に失敗する。1924年にレーニンが死去し、スターリンの時代になると、スターリンは「一国社会主義」(ソ連だけで社会主義国家を建設していく)という方針を打ち出しつつ、矛先を東アジアにおける主要な仮想敵である日本に向けるようになっていく。
コミンテルンの手法は、敵の政権内部に共産主義者を浸透させて内部から攪乱・崩壊を狙うことである。現実に、ソ連のシンパが、日本陸軍や外務省など政権中枢に入り込んでいた形跡もある。
そしてソ連の対日戦略において、重要な場となったのがシナであった(ちなみに本書ではいわゆる「中国」のことを「シナ」と表記することを標準とする。それは本来、「中国」という言葉が「自分にとって一番大切な国」という意味であって、日本でも幕末に至るまで自国〈=日本〉を「中国」と記す例があったからだ。しかも「中国」という場合、華夷思想に基づいて、周辺国は「蛮族」だという認識も付随する。翻って「シナ」という言葉は英語の「China」と同義であり、なんら差別的意味合いはない。「中国」は中華民国 、あるいは中華人民共和国の略称、あるいは現在のシナ大陸の政権を指すのに用いる)。ソ連は中国共産党と国民党にそれぞれ援助を与えつつ、両党を合作(国共合作)させ、反日運動を煽っていた。
その際、ソ連にとっての大いなる邪魔者の一人が、軍閥として満洲から華北を支配していた張作霖であった。
もともと張作霖は満洲の馬賊(盗賊などへの自衛のために結成された非合法の軍事集団、匪賊〈ひぞく〉)に加入してめきめき頭角を現わし、日露戦争では日本軍のスパイとしても活躍した男である。日露戦争後には清朝に帰属して袁世凱に従うようになり、そして袁世凱の没後に軍閥として自立し(奉天派)、日本ともつかず離れずの協力関係を結んで「満洲王」と呼ばれるほどの権勢を振るうようになった。
張作霖はソ連が後押しする国民党や中国共産党とは対立していた。大正15年(1926)12月に彼は北京で大元帥に就任し、自らが中華民国の主権者であると宣言している。1927年、蔣介石率いる国民革命軍(国民党+中国共産党)が南京に侵攻し、各国領事館の人々を凌辱(りょうじょく)殺害する事件(南京事件)が起きると、張作霖は「黒幕はソ連だ」として北京のソ連大使館を家宅捜索して武器や宣伝ビラを押収。さらに共産党シンパを弾圧して、ソ連とは敵対関係に入っていたのである。
面白いことに、張作霖爆殺事件の当時、現地で調査を行なった日本軍の報告書でも外交筋の報告書でも、関東軍が列車を爆破したことにはなっていなかった。だが不思議なことに、誰が情報を抑えたのかはわからないのだが、その報告書が日本の上層部の意思決定に大きな影響を与えることはなかった。
もしかすると、日本陸軍や外務省に入り込んだソ連シンパが情報操作を行なう一方、ソ連はコミンテルンなどを使って関東軍が張作霖を爆殺したという情報を流し、日本軍を悪者に仕立て上げたのかもしれない。そういうストーリーも描けるのである。


