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さらに、「あの当時、相手側が何をしたのか」をきちんと書かないと、「戦争をしたがる日本人がどんどん堕落して馬鹿な戦争を始め、彼らのせいで罪なき日本人が戦地で無残な死を遂げ、空襲で焼かれ、ついには原爆を落とされて負けた」という一方的な話になってしまう。これは非常に危険なことである。
その一例として、「満洲事変」のことを考えてみよう。
東京裁判は、日本の侵略戦争の始まりは満洲事変(昭和6年〈1931〉)だと断定した。
半藤氏も次のように書いておられる。
〈(前略)強国になった日本を保持し、強くし、より発展させるためにはどうしても朝鮮半島と満州を押さえておかなければならない。未来永劫(みらいえいごう)に。それにはどんどん悪化しつつある状況にどう対応すべきか、問題をどう処理すべきか、これが日本にとっての大使命であり、昭和の日本人がもっとも解決を急(いそ)がされる命題としてつきつけられた。ここから昭和がはじまるのです。
昭和史の諸条件は常に満州問題と絡(から)んで起こります。そして大小の事件の積み重ねの果てに、国の運命を賭とした太平洋戦争があったわけです。とにかくさまざまな要素が複雑に絡んで歴史は進みます。その根底に〝赤い夕陽の満州〟があったことは確かなのです〉
現在の日本人の中には、このような意見を聞いて心の底から納得する人も多いだろう。「なぜ軍部は満洲などという地を手に入れようとしたのか。そんなところに進出して、ズルズルと戦線を拡大させた馬鹿な軍部エリートのせいで、日本は悲惨な末路を迎えることになったのだ」──そう考えている人も多いはずだ。
その満洲事変の遠因になったのが張作霖爆殺事件(昭和3年〈1928〉)である。これは関東軍参謀の河本大作大佐を首謀者とする日本陸軍の陰謀だということになっており、歴史を研究している人たちの多くも、いま普通にそう考えている。
私は平成18年(2006)に出版した『東條英機 歴史の証言』(祥伝社)で、同事件について検証したことがある。
田中義一首相は当初、容疑者を軍法会議で処罰すると上奏したが、陸軍の反対で果たせず、事件をうやむやのうちに処理しようとした。それに怒った昭和天皇は田中首相を叱責し、田中内閣は総辞職した。田中首相は昔気質の元軍人で、天皇陛下の信任を失ったことを気に病み、悶死したともいわれている。
では、張作霖爆殺事件は日本軍の仕業だったか。
実は近年、その戦後の通説を覆す見方がいろいろ出てきた。たとえば精力的に近現代史を研究しておられる加藤康男氏が、近年イギリスで公開されたイギリス諜報機関の情報を調査して、当時、イギリス側ではそのときの爆薬まで分析していて、それがソ連製であることもつかんでいたことを突き止めたのである(同氏著『謎解き「張作霖爆殺事件」』〈PHP研究所〉)。当時はイギリスの諜報員も数多くシナに入り込んでいたから、飛散した爆弾の破片を集めて持って行ったのだろう。彼らはそれを分析してソ連製の爆弾だと踏んだのだ。
張作霖は北京から奉天に向かう京奉線の列車に乗り、奉天を目指していた。そして奉天近郊まで来たとき、京奉線の上を満鉄(南満洲鉄道)が交差する高架橋の付近で爆発が起き、殺害されたのであった。通説では、河本大作大佐が高架橋の先の線路脇に爆薬を設置して爆殺したとされている。だが、同事件の現場検証の写真をよく見ると、壊れているのは張作霖が乗っていた特別列車の天井であり、線路が爆破されているのではないのである。
加藤氏によれば、イギリスの公文書館にも事件の写真が数多く残っていて、いずれも線路の爆破ではないことを証明しているという。MI6も、列車内に爆薬が仕掛けられていて、それが高架橋下で点火され爆発した結果だと報告しているという。
そういわれれば、京奉線の線路は大丈夫で、車両の天井が吹き飛んでいるのも不思議でも何でもない。
私はそこまでは知らなかったが、東京裁判のときにも河本大作が生きていて、中国国民党の山西軍に協力していたことが不思議でならなかった。彼は第二次国共内戦(昭和21年〈1946〉~24年〈1949〉)で中国共産党軍に敗れて戦犯として逮捕され、収容所で死んでいるが、河本大作がそれほどまでに悪い陰謀を手がけた男なら、連合国はなぜ彼を東京裁判に引き出さなかったのか。
加藤康男氏は、左翼に転向した張学良が、父親である張作霖を殺そうと図ったという説を提示しておられるが、たしかにそう考えると、腑に落ちることがいくつもある。
張学良ならば、父の張作霖が乗っている車両の中に時限爆弾を置くことは難しくはなかっただろう。手下を送って車内で爆弾を爆発させることも可能だったはずだ。もちろんこれは仮説ではあるのだが。
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