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もしロシア革命がなかったら大東亜戦争はなかったはず

本当のことがわかる昭和史《1》誰が東アジアに戦乱を呼び込んだのか(15)コミンテルンが東アジアに戦乱を呼び込んだ

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
演説するレーニン
もしロシア革命がなかったら、大東亜戦争はなかったはずであり、共産主義政権のソ連が成立していなければ満洲は乱れなかった。そもそも満洲が平和であったなら、シナ事変も起こるはずがない。では、東アジアに戦乱を呼び込んだのは誰なのか。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第一章・第15話。
時間:04:07
収録日:2014/11/17
追加日:2015/08/13
≪全文≫
 半藤氏のいいところは、昭和5年(1930)生まれだけあって、昭和天皇が立派だったことを、きちんと書いているところだ。半藤氏は、その昭和天皇のいうことを聞かなかった軍部の中枢を厳しく批判している。

 ところが残念ながら、半藤氏は共産党のことについてほとんど述べていない。実際に、政府中枢や陸海軍にコミンテルンの手が回っていたことは確かであり、そこにいたエリートたちの幾人もが戦後に共産党や社会党左派に入って活動しているにもかかわらず。

 ともあれ、半藤氏はやはり東京裁判の影響を強く受けすぎたのだろう。東京裁判にはソ連も判事・検事を送り込んでいるから、共産党やコミンテルンのことはけっして問題にしなかった。

 だが、もちろん当時の日本側の認識は違っていた。東條英機大将は東京裁判での宣誓供述書の中でこう強調している。

〈他面帝国は第三『インターナショナル』の勢力が東亜に進出し来(きた)ることに関しては深き関心を払って来ました。蓋(けだ)し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱(かくらん)し、延(ひ)いて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。

(中略)支那事変に於て、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害(そがい)する重要なる原因の一たるに鑑み、共同防共を事変解決の一条件とせることも、又東亜各独立国家間に於て『防共』を以て共通の重要政策の一としたることも、之はいずれも東亜各国協同して東亜を赤化の危険より救い、且(かつ)自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。此等(これら)障壁が世界平和のため如何(いか)に重要であったかは、第二次世界大戦終了後此の障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁に之を物語って居ります〉
(渡部昇一『東條英機 歴史の証言』〈祥伝社〉)

 ここで思い当たるのは、日露戦争以後、日本とロシアの関係はわりとうまくいっていたということである。満洲の鉄道権益などの問題についても、思いのほかスムーズに話がついている。そこにアメリカが割り込もうとしたときにも、日本とロシアが手を組んでアメリカを追い出している。

 だが第一次世界大戦後にロシア革命で帝政が崩壊し、共産主義政権が成立してから、状況が一変する。ソ連は5カ年計画を立て続けに実行し、満洲国との国境に二十個師団を展開するまでになっていた。対する関東軍は1万人あまりである。

 その意味では、ロシア革命がなかったら、大東亜戦争はなかったはずである。共産主義政権のソ連が成立していなければ満洲は乱れなかった。そもそも満洲が平和であったなら、シナ事変も起こるはずがないのである。

 前述したように、コミンテルンはヨーロッパでの革命運動に失敗したあと、その矛先を東アジアに向けた。ソ連の指導者スターリンは、日本がソ連を攻撃することを恐れていた。そのために、日本の政権内部にスパイを潜入させて、日本の国策を北進論(ソ連を主敵とし、アメリカ・イギリス・中国には穏和策をとる戦略)ではなく、南進論(資源を確保するために、中国、さらに東南アジアへの進出を目指す戦略)にすることを目論む。

 その任を担ったのがリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀実(ほつみ)であった。ゾルゲはドイツの有力新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』の記者として日本や中国を往来し、さまざまな諜報活動に従事した。そのゾルゲと結んで、近衛内閣のブレーンとして政権内部に入り込み、甚大な影響を及ぼしたのが朝日新聞記者・尾崎秀実である。

 尾崎は、シナ事変が起きると講和論や不拡大方針に猛然と反論を唱え、蔣介石政府を徹底的に叩くべきだという論陣を張り、国民世論を煽り立てた。これによって近衛文麿が「国民政府を対手とせず」という声明を打ち出すことになったのは有名な話である。日本をシナとの戦いの泥沼に引きずり込むのに、尾崎は実に大きな役割を果たした。もちろん、その影響は、シナとの戦いで日本の国力を蕩尽させたことのみにとどまらない。シナに利権を求める英米との関係も決定的に悪化し、日本は南進論へと政策の軸足を変えていくことになる。まさにコミンテルンの思うつぼであった。

 コミンテルンはまた、シナの革命勢力に盛んに援助をして取り入り、民族主義を煽り、日本とシナを戦わせるべく、盛んな工作を展開していた。

 シナ側で日本との戦いを指導したのは、ソ連が資金を提供して設立された黄埔軍官学校の出身者たちだった。日本で軍事教育を受けた蔣介石が校長になったが、当時進められていた第一次国共合作を背景に、中国国民党だけでなく中国共産党の軍人も入校した。副校長の鄧演達は、中国共産党を一貫して支持した親共産党派であった。

 コミンテルンの指導で結成された中国共産党...
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