社会人向け教養サービス 『テンミニッツTV』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
シーザーの「賽は投げられた」の本当の意味とは?
1200年に及ぶローマ史のなかで、私たち日本人にもなじみ深い名前といえば、カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)をおいてないのではないでしょうか。「賽は投げられた」「来た、見た、勝った」「ブルータス、お前もか」などの名言で知られる終身独裁官について、ローマ史研究家で早稲田大学国際教養学部特任教授の本村凌二氏はどのように見ているのでしょうか。
そんな三者でしたが、生まれながらの富がいくらあっても力や知恵を買うことはできず、力を持つ者は富や知恵を集めることに疎く、ただ知恵のある者だけが富と力を引き寄せるために懸命な努力を続けられる。その結果として三者のバランスが崩れていったと、本村氏は見ているのです。
紀元前60年前後のことですから、2100年も隔たった昔。とはいえ、人間の本質や政治におけるパワー・バランスの推移にはさしたる変化はないことを、ローマ史は教えてくれるようです。
閥族派に担ぎ上げられたポンペイウスは、小アジア・オリエント方面に遠征し、相次ぐ勝利で、ローマ市民からの人気を集めていました。その彼が、シーザーの娘ユリアと結婚したのは47歳のとき。彼にとって四度目の妻となるユリアは24歳と、今でいう「年の差カップル」でしたが、夫婦仲は極めてよく、特にポンペイウスはユリアに夢中だったと言われています。
ローマ市民から「ポンペイウスは若い妻に溺れて、政治に興味を失った」と噂される中、ユリアは妊娠。ところが一度目は選挙の際の騒乱で血を浴びたポンペイウスの衣服を見た衝撃で流産してしまい、二度目の妊娠では女児を出産するものの、産褥がはかばかしくなく、そのまま亡くなってしまいます。
「ローマ史全体を考える上での、非常に大きな不幸」と本村氏が言うように、このことが二人の対立を明るみに出していくのです。
なぜならば、ルビコン川とは、当時のローマにおいて、ガリアとローマを分ける境界線。故郷へ帰るのに、必ず踏んでいく場所だからです。異民族の暴動を鎮圧して戻ってきたシーザーは、いわゆる凱旋将軍のはず。それなのに、なぜ彼はそのような言葉を発したのでしょうか。
それは、武装解除するか否かの問題に直面したからです。当時の法律では、ローマ軍は遠征から帰ってローマ市中に入る際には武装を解くことが定められていました。その国禁を破ってシーザー軍は、武装したままルビコン川を渡ることにしたのです。
それは、敵がローマ市内にこそいたからに他なりません。閥族派の面々は、ただでさえ大きなシーザーの権力が今回の武勲によってますます大きくなっていくことを恐れていました。彼らの襲撃を予測し、国禁を犯してかつての盟友との対決に臨むことが、ルビコン川を渡るシーザーの思いでした。
これ以後、民衆派と閥族派との戦いは2年近く続き、追い詰められたポンペイウスはエジプトへ逃れ、その地であえない最期を遂げます。ポンペイウスの死を知ったシーザーは涙を流したと言いますが、そこには彼に対する惜別の情とともに、帝国化したローマの権力を握る「独裁者」となってしまった自分の運命への恐れがあったのかもしれません。
三頭政治のバランスがくずれるとき
シーザーの呼びかけで始まったのが三頭政治です。三頭、つまり三人のうち残りの二人はクラッススとポンペイウスです。三人の貴族たちは、それぞれ「知恵(政治)」「富(土地・金)」「力(軍事力)」の面で秀でていたと言われます。そんな三者でしたが、生まれながらの富がいくらあっても力や知恵を買うことはできず、力を持つ者は富や知恵を集めることに疎く、ただ知恵のある者だけが富と力を引き寄せるために懸命な努力を続けられる。その結果として三者のバランスが崩れていったと、本村氏は見ているのです。
紀元前60年前後のことですから、2100年も隔たった昔。とはいえ、人間の本質や政治におけるパワー・バランスの推移にはさしたる変化はないことを、ローマ史は教えてくれるようです。
ローマ史を左右した女性ユリアとは
三頭政治は、クラッススの死によって二者間の対立となります。これは個人的なものというより、民衆派(ポプラレス)と閥族派(オプティマテス)の対立を象徴したものと言ったほうが近いでしょう。閥族派に担ぎ上げられたポンペイウスは、小アジア・オリエント方面に遠征し、相次ぐ勝利で、ローマ市民からの人気を集めていました。その彼が、シーザーの娘ユリアと結婚したのは47歳のとき。彼にとって四度目の妻となるユリアは24歳と、今でいう「年の差カップル」でしたが、夫婦仲は極めてよく、特にポンペイウスはユリアに夢中だったと言われています。
ローマ市民から「ポンペイウスは若い妻に溺れて、政治に興味を失った」と噂される中、ユリアは妊娠。ところが一度目は選挙の際の騒乱で血を浴びたポンペイウスの衣服を見た衝撃で流産してしまい、二度目の妊娠では女児を出産するものの、産褥がはかばかしくなく、そのまま亡くなってしまいます。
「ローマ史全体を考える上での、非常に大きな不幸」と本村氏が言うように、このことが二人の対立を明るみに出していくのです。
「賽は投げられた」の本当の意味を知っていますか
「賽は投げられた」は、現在では「(帰還不能となる限界点を越えてしまったので)最後までやるしかない」という意味で使われています。そのため、私たちは「ルビコン川を渡る」こと自体を、シーザーが大きな賭けとみなしたように思いがちですが、それは誤りです。なぜならば、ルビコン川とは、当時のローマにおいて、ガリアとローマを分ける境界線。故郷へ帰るのに、必ず踏んでいく場所だからです。異民族の暴動を鎮圧して戻ってきたシーザーは、いわゆる凱旋将軍のはず。それなのに、なぜ彼はそのような言葉を発したのでしょうか。
それは、武装解除するか否かの問題に直面したからです。当時の法律では、ローマ軍は遠征から帰ってローマ市中に入る際には武装を解くことが定められていました。その国禁を破ってシーザー軍は、武装したままルビコン川を渡ることにしたのです。
それは、敵がローマ市内にこそいたからに他なりません。閥族派の面々は、ただでさえ大きなシーザーの権力が今回の武勲によってますます大きくなっていくことを恐れていました。彼らの襲撃を予測し、国禁を犯してかつての盟友との対決に臨むことが、ルビコン川を渡るシーザーの思いでした。
これ以後、民衆派と閥族派との戦いは2年近く続き、追い詰められたポンペイウスはエジプトへ逃れ、その地であえない最期を遂げます。ポンペイウスの死を知ったシーザーは涙を流したと言いますが、そこには彼に対する惜別の情とともに、帝国化したローマの権力を握る「独裁者」となってしまった自分の運命への恐れがあったのかもしれません。
~最後までコラムを読んでくれた方へ~
物知りもいいけど知的な教養人も“あり”だと思います。
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,600本以上。
『テンミニッツTV』 で人気の教養講義をご紹介します。
あなたは縄文系?弥生系?…弥生時代の実態に迫る
編集部ラジオ2025(10)弥生人の遺伝子、生活、文化
「自分は縄文系だろうか? それとも弥生系だろうか?」。そんなことを、ふと考えたことはありませんか。
日本は、縄文系の遺伝子や文化がいまなお色濃く残りつつ、そこに弥生系の遺伝子・文化が絶妙に混交して、独...
日本は、縄文系の遺伝子や文化がいまなお色濃く残りつつ、そこに弥生系の遺伝子・文化が絶妙に混交して、独...
収録日:2024/04/03
追加日:2025/05/29
なぜ日本の医療はテロに対応できないのか?三つの理由
医療から考える国家安全保障上の脅威(5)日本の医療の問題点と提言
残念なことだが、現在の日本の医療はテロ攻撃には対応できない。その理由として、テロの悪意に対して無防備なこと、時代遅れの教科書的知識しか持っていないこと、テロで想定される健康被害に対応できる医療体制にないこと、が...
収録日:2024/09/20
追加日:2025/05/29
なぜ弥生時代の始まりが600年も改まった?定説改訂の背景
弥生人の実態~研究結果が明かす生活と文化(1)弥生時代はいつ始まったのか
弥生時代の始まりが600年ほどさかのぼった――私たちがかつて教科書で習ってきた知識は日々の研究によって更新され、紀元前3世紀だった弥生時代の開始年代の定説が近年、測定法の洗練によって大幅に改められたのだ。その背景には...
収録日:2024/07/29
追加日:2025/03/19
なぜ東郷平八郎はバルチック艦隊を対馬で迎え撃ったのか?
戦史に見る意思決定プロセス~日本海軍の決断(1)日本海海戦・東郷平八郎
「もしも自分が東郷平八郎だったら・・・」バルチック艦隊の迎撃作戦でどんな決断を下すだろうか。海上自衛隊幹部学校長・山下万喜氏が、現在西側諸国を中心に使われている意思決定プロセスを日露戦争・日本海海戦に適用し、そ...
収録日:2015/06/15
追加日:2015/07/20
ハミルトン経済学に立脚した「米国システム」4つの柱とは
米国システムの逆襲~解放の日と新世界秩序(2)ハミルトン経済学と米国システム
トランプ大統領が標榜する「米国システム」の思想の背景には、関税政策を軸に大英帝国の自由主義に対抗せねばならないというハミルトン経済学の思想があった。かつてのアメリカの「独立」と現在を重ね、反グローバリズムに舵を...
収録日:2025/04/25
追加日:2025/05/27