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DATE/ 2022.03.03

悪口とは何か―『悪い言語哲学入門』に学ぶ言葉の意味と働き

 セクハラやモラハラ、パワハラなどのハラスメント、ネット中傷やヘイトスピーチ。最近、ニュースで取り沙汰されているこれらの問題は「言葉の暴力」と表現されることがあります。私たちがふだん何気なく使っている「言葉」に端を発しているというわけです。

 ではなぜ言葉が「暴力」になるのでしょうか。言い換えるなら、「悪い言葉」あるいは「悪口」とは何でしょうか。なんとなく分かっているようで、説明しようとすると難しい、この素朴な疑問に迫るため、今回参照したいのは『悪い言語哲学入門』(和泉悠著、筑摩書房)という書籍です。著者の和泉悠氏は南山大学人文学部人類文化学科准教授で、専門分野は言語哲学、意味論。罵詈雑言や差別語、ヘイトスピーチの仕組みなど言語のダークサイドへの関心があり、その研究の成果として結実したのが本書といえるでしょう。

「アホ」と「賑やかですね」は悪口か

 さて、ひとくちに「悪口」といってもいろいろあります。たとえば、誰かがあなたに対して「アホ」と言ったとしましょう。これは悪口でしょうか。「アホ」は悪い言葉だから「当然、悪口だ」と断定したくなりますが、実は必ずしもそうとは言えません。どんな場面で、誰が発言したのかによって、言葉の「意味」が大きく異なるからです。

 もうひとつ例を挙げましょう。「とっても賑やかですね」という発言はどうでしょうか。言葉の表面だけなぞるなら、これが悪口とは思えません。しかし、これも、発言の場面と発言者によって言葉の意味が大きく変化します。「(本当は)うるさいから静かにしてほしい」という意味を込めて、嫌味でそう言っていたとしたら、どうでしょう。

 この二つの例も言語学から観点からより明晰に分析することができます。

悪口を見極める「文脈」と「行為」

 先ほどの例の「アホ」という発言については、「文脈」という言葉で説明することができます。つまり、「誰が誰にどのような状況でどのような目的や意図を持って言ったのか、そして帰結はどのようなものなのか」を見極める必要があるということです。

 「言語行為論」という考え方に触れることで、さらに踏み込んで考えることもできます。「文脈によって評価が変わるもの」は言語にかぎりません。言語を含めた「私たちのすること」すべて、すなわち「行為」がそれに当てはまります。悪口は「言語の一部」であり、「行為の一種」であると捉えることもできるのです。

 そうすると、悪口の多様性と日常性をよりいっそう浮かび上がらせることができます。例えば、罵る、悪態をつく、おとしめる、くさす、けなす、辱める、からかう、馬鹿にする、揶揄する、呪うなどもすべて「悪口の言語行為」に当てはまります。さらに、沈黙させる、従属させる、ランクづけするなどもそこに含まれます。特に「ランクづけする」は悪口を考えるうえで非常に重要な意味を持つので、後述します。

「会話の含み」を悪口に利用する

 「とっても賑やかですね」の例についても考えてみましょう。こちらは「会話の含み」という観点から説明することができます。「会話の含み」とは「真理条件的内容以外で、話者が聞き手に伝えようと意図したこと」です。

 「真理条件的内容」については少々説明が必要ですね。和泉氏は「意味の働き」を次の四つに分類しています。「真理条件的内容」「前提的内容」「使用条件的内容」、そして「会話の含み」です。「真理条件的内容」も「会話の含み」も「意味」の分類の一つだというわけです。

 「真理条件的内容」は、言葉としては難しいですが単純なことです。文章や発言が「正しい」ということを指しています。「会話の含み」は「真理条件的内容以外で、話者が聞き手に伝えようと意図したこと」ですから、悪口に利用するときには「真理条件的内容から遠ざかる」ことで、つまり、なるべく遠回しの言い方によって伝えることで、「そんなことを言ったつもりはない」と言い逃れすることもできるのです。

なぜ悪口は悪いのか

 以上の二つの例から、悪口について大きく次のことを導き出すことができます。一つは、悪口は「表現の種類」によって決まるわけではないため、「行為」の観点から考えた方がいいということ。もう一つは、当然といえば当然のことなのですが、言語の「意味」が多様であるからこそ、悪口も多様であるということです。

 これが、結局のところ「悪口とは何か」「なぜ悪いのか」という最初の疑問の答えにもつながってきます。悪口の重要な言語行為の一つとして、「ランクづけする」という例を挙げましたが、結論をいえば、悪口が「なぜ悪いのか」というと、「あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりするから」です。

 「序列関係・上下関係」というのが「ランキング」のことです。私たちはさまざまな違いはあるにしても、そもそも平等な存在であるはずです。「ランクづけする」という行為はその人権を踏みにじる行為です。言葉によってランキング化し、権力の上下関係を生み出します。これは、ヘイトスピーチにも象徴されます。

ヘイトスピーチとは「ランクづけ」

 ヘイトスピーチは、EU理事会によって「人種・皮膚の色・宗教・血統・国民的あるいは民族的出自などを含む、特定の特徴にもとづいて、集団や個人に向けられた暴力や憎悪をおおやけに扇動すること」と定義されています。言語学的に考えると、ヘイトスピーチは、【「A人」という集団】は【「B人」という集団】よりも優れているという図式である「A人集団>B人集団」のランキングを押し付ける行為です。

 ヘイトスピーチにおいて、攻撃対象となる集団をおとしめる表現として「ゴキブリ」や「ヘビ」といった「ヒト以外の生き物」を使う理由もこの「ランクづけ」という観点から導き出すことができます。そして、そこにはすでに「ゴキブリ」や「ヘビ」に対しても「ヒト以下」と「ランキング」する発想が潜んでいます。

 ランキング行為の何が恐ろしいかといえば、暴力や差別の正当化につながることです。さらに恐ろしいのは「無邪気に」、差別の意図を持たずにランクづけや差別的発言をしてしまう可能性が誰にでもあるということです。そんなとき、よく「差別する意図はなかった」「悪意はなかった」「差別とは知らなかった」という弁解を聞くことがあります。

 けれども、こうした言い訳は言語学的にいっても、「意味の外在主義」という立場から考えてみると、決して許されることではないということです。「話者の意図」とは関係なく、差別的表現を使った時点で、「差別的な構造の維持に貢献しているかもしれない」からです。

 冒頭にも書いた通り、ハラスメントもネット中傷もヘイトスピーチも私たちがふだん何気なく使っている「言葉」に端を発しています。言葉がいかに恐ろしい武器になるのか。和泉氏は次のように書いています。

「少なくとも、私たちは、言語がときとして、大事故を引き起こすタンカーや航空機のように、人を傷つけ、社会を壊すことがあることを忘れてはならないでしょう」

 そして、そのことを忘れないためにも、本書は貴重な一冊といえるでしょう。

<参考文献>
『悪い言語哲学入門』(和泉悠著、筑摩書房)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480074553/

<参考サイト>
和泉悠先生のホームページ
https://sites.google.com/site/yuizumi/home
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