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DATE/ 2022.11.08

「性スペクトラム」という最前線に学ぶオスとメスの新常識

 生物研究者は長い間、性(オスとメス)を対立する2つの極のように捉えてきました。しかし、単純な雌雄の二項対立や対比だけでは、残念ながら「性」本来の姿を理解することは不可能でした。そのような旧来の「性」への捉え方のアンチテーゼとして、「性スペクトラム」という基礎生物学研究の最前線の新しい概念が登場しました。

 「スペクトル」とは、現象・症状・傾向などがあいまいな境界をもちながら連続していることを指します。つまり「性スペクトラム」とは、性は固定されたものではなく、オスからメスへと連続する表現型として、多様かつ柔軟な位置を取り得るという考え方です。

 このたび、「性スペクトラム」という新しい概念を、身近な事例を通して考えることのできる本として『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線-』(NHK出版新書)が上梓されました。著者である九州大学大学院医学研究院教授の諸橋憲一郎先生は、30年にわたり生物の「性」を研究されています。そして、「性スペクトラム」という新しい学術領域研究の第一人者でもあります。

「性スペクトラム」を体現する生物たち

 本書では、逆の性に擬態する鳥やトンボ、何度も性転換する魚、生殖機能を持たないメスを性ホルモンで操るハダカデバネズミの女王など、まさに「性スペクトラム」を体現する生物たちを通して、「オスとメスは単純に二極で分けることはできない」ことや、「生物の性は固定されることなく生涯を通して変化し続けている」ことが述べられています。

 例えば、エリマキシギという鳥には、縄張りを有するこげ茶色の襟巻きの「縄張り型」のオス、羽色に白い部分のある縄張りを持たない「サテライト型」のオス、メスと形態がほとんど同じ「メス擬態型オス」と、3種類のオスが存在します。

 「サテライト型」は、もし「縄張り型」だとしたら、同じ「縄張り型」に負けてしまうため、メスと交尾できません。しかし、「サテライト型」になることで、「縄張り型」と戦わずして複数のメスがいる縄張り内に入ることで、「縄張り型」の目を盗んでメスと交尾する機会と自身の子を残す機会を高めることができるのです。

 鳥と同じように、トンボも性を擬態します。例えば、ニホンカワトンボのオスは基本的に橙色の翅を持つのに対し、メスは透明の翅を持ちますが、透明の翅を持つオス、つまり「メス擬態型のオス」も存在します。また、ニホンカワトンボのオスは縄張りを持つため、他のオスの個体が縄張りに入ってくると追い出しにかかりますが、「メス擬態型のオス」は縄張りを持つオスから追い出されません。

 一方、アカトンボのオスは基本的に鮮やかな赤色、メスは黄色がかった橙色をしていますが、アカトンボのメスの中にはあたかもオスのように赤くなった個体、つまり「オス擬態型メス」も存在します。「オス擬態型メス」は産卵時、オスからの妨害を受けにくくする効果があるため、効率の良い産卵行動が可能になるといわれています。

「性スペクトラム」の因子とステップと制御

 ではどのように「性スペクトラム」上の位置は決まったり調整されたりしているのでしょうか。

 諸橋先生は生涯にわたる性の変動について、2大因子「性決定遺伝子」と「性ホルモン」と、性を決める4つのステップに焦点を当てながら、「性スペクトラム」を解説しています。

 まず前半の2つのステップは「性決定遺伝子」の役割であり、(1)受精による性染色体の組み合わせの決定と、(2)遺伝子による性決定が行われます。

 続く後半の2つのステップでは「性ホルモン」の力が作用し、(3)性ホルモンによる性差構築が行われますが、やがて(4)加齢による脱オス化と脱メス化へと進んでいきます。

 以上のように、「性決定遺伝子」の有無で精巣か卵巣を持つ個体ができあがり、その後は精巣と卵巣で算出される「性ホルモン」の男性ホルモンと女性ホルモンによって、「性スペクトラム」が変化していきます。

 そして、「性決定遺伝子」等の遺伝的制御と「性ホルモン」等の内分泌制御は互いに密接な連携を取りながら、独自の性を内包する全ての細胞の性を制御しています。

「性スペクトラム」から生と性を捉え直す

 最終章では「脳の性」に着目し、脳の「性スペクトラム」について述べています。ただし、「性スペクトラム」は基礎生物学研究の最前線であるため、現段階では未解明な部分がいろいろとあり、特にヒトの性自認と性指向のスペクトラムなど、議論の多い重要な観点はこれからの研究にその回答が委ねられていることも多いようです。

 しかしながら、基礎生物学研究と、自身の脳のことや指向を違うものとして捉えるのではなく、まさに“スペクトラム”と仮定しながら考えることの大切さを教えてくれています。

 本書を読むことで、“「性スペクトラム」を通すことによって性本来の姿を捉えられる”と考える、諸橋先生の知見を興味深く、かつわかりやすく学ぶことができます。多様性が叫ばれるようになった現在、多様な生物の生と性を多角的かつ本質から捉えて、それを認め合うことが常識になる。本書はそのための貴重な一冊といえるでしょう。

<参考文献>
『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線-』(諸橋憲一郎著、NHK出版新書)
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886832022.html

<参考サイト>
九州大学大学院 医学研究院 分子生命科学系部門 性差生物学講座(分子生物学)
https://www.med.kyushu-u.ac.jp/seisaseibutu/
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小原雅博
東京大学名誉教授