テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
テンミニッツTVは、有識者の生の声を10分間で伝える新しい教養動画メディアです。
すでにご登録済みの方は
このエントリーをはてなブックマークに追加

ジョセフ・グルーによるポツダム宣言草案をめぐる奮闘

敗戦から日本再生へ~大戦と復興の現代史(9)早期和平のための知られざる努力

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
ジョセフ・グルー
公立大学法人首都大学東京理事長・島田晴雄氏による島田塾特別講演シリーズで学ぶ太平洋戦争をめぐる昭和史。ルーズベルト大統領の死は、間接的には日本に大きな幸運をもたらしたと言える。後任のトルーマン大統領を補佐すべく、外交のベテランであり知日派のジョセフ・グルー氏が国務次官に起用されたからだ。日本の将来を見据えた早期和平のために、グルー氏の奮闘が始まる。(2016年7月8日開催島田塾第137回勉強会島田晴雄会長講演「敗戦、占領、そして発展:日本は異民族支配からいかにして再生したか?」より、全13話中第9話)
時間:14:49
収録日:2016/07/08
追加日:2017/07/31
≪全文≫

●ルーズベルトからトルーマンへ-対外政策の大転換


 沖縄戦が開始された直後の1945年4月12日午後1時15分、4選まで果たした偉大な大統領・フランクリン・D・ルーズベルトが亡くなりました。後任の大統領にはいろいろな人の名前が挙がったのですが、消去法で、4期目のルーズベルト大統領の副大統領として、非常に実直な実務家であったダークホースのハリー・S・トルーマンが大統領に昇格しました。

 トルーマンは、外交知識が全くありません。しかも、ルーズベルトは個人で外交をしていたので、国務省はその内容についてよく分かりませんでした。この新大統領の登場は、対外政策の転換を必然化しました。「ルーズベルトが大統領をやっていたら、個人的威信を懸けていた無条件降伏の貫徹からの離脱は困難だったかもしれない」と、五百旗頭真さんが仰っています。


●日本にとっての幸運-知日派グルー氏の国務次官就任


 トルーマンは4月16日の大統領昇格後、議会演説で「私はルーズベルト大統領の政策を踏襲する」と述べたのですが、政策決定スタイルは大きく変化しました。なぜかというと、ルーズベルトは国務省は完全無視、頭越し外交だったのに対して、トルーマンは何も知らないから国務省を重視。しかも、有名な人ですけれど、ルーズベルト大統領第4期に病気を理由にして国務長官を辞任したコーデル・ハルの後に国務長官として長官に昇格したのが、上院議員だったエドワード・ステティニアスでした。この人は、GMの副社長から政権に招かれた人で、外交知識はゼロ、何の関心も識見もなかったのです。しかし、これが実は日本には大変にラッキーなことでした。

 誰も専門家がいないので、新しい国務次官には外交に精通したベテランが不可欠ということで、ジョセフ・グルー元駐日大使が選任されたのです。何と知日派の頭目が実質的にアメリカ外交の最高責任者となる。これはもう奇跡としか言いようがない。日本はラッキーでした。この人は、東西、内外に通じた外交経験のゆえに、知日派であるにもかかわらず、国務次官に選ばれた。しかし、上院での承認は、「知日派は許さん」ということで、もう非常に難航したのです。しかし、この時期に、このような人が出たというのは、ありがたいことでした。


●早期和平と2・26の再現の間で苦悩した鈴木貫太郎


 もう一つ、東京で奇跡が起きました。1945年4月、政変がありました。4月5日、小磯内閣が総辞職。後継首相として鈴木貫太郎さんに大命が降下しました。鈴木さんは、もちろん辞退しました。こう言ったのです。「私は、もう77歳だが、一介の武弁である」「この高齢で、もう責務には堪えません」と。鈴木さんはその昔、海軍大将でした。その後、1929年から36年の2・26事件まで7年間、皇室の侍従長を務めました。彼の奥さんは天皇の幼少の頃の保母さんなのです。ですから、天皇は、鈴木さんのことを実のおじのように思い、尊敬していたのです。

 その天皇から「この国家危急の時に、もう他に人はおらぬ。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と言われたのです。その趣旨が早期和平と本土決戦前の和平であることは、鈴木さんは誰よりもよく分かっていました。しかし、1889年に決められた内閣制度は日清戦争前に決められたもので、戦前の制度ですから、閣僚の全員一致を条件としていました。多数決では許されない。今は、慣行として一致にしていますが、多数決は可能なのです。ですから、本土決戦強硬派の陸軍の同意がなかったら何も決まらない。無理に強行したら2・26事件の二の舞になる恐れがあると、彼の脳裏に走るわけです。

 なぜかというと、あの2月26日、鈴木さんが跳ね上がった陸軍兵士の前で「撃つなら撃て」と言ったら、彼らは本当に撃ったのです。それで、頭と肩と左胸と股の4カ所に銃弾を浴びて、卒倒したのです。しかし、たまたま急所を外れたので、命は永らえた。だから、「鈴木内閣の目的は早期和平」と発表して跳ね上がりに襲われたら、もう次に続く人がいなくなって、和平もできなくなる。だから、彼は天皇に「首相を」と言われても悩んだのです。何としても陸軍を引き連れて、終戦まで進めねばならなかったからです。


●東京大空襲、そしてついに鈴木内閣組閣へ


 5月24日、25日、第三次東京大空襲。首都は徹底的に焼かれました。しかし、なぜか皇居には爆撃がなかったのです。それは、アメリカの政府の中で情報機関やグルー大使などが相談して、「取りあえず、ここは天皇の攻撃を控えましょう。天皇は終戦と占領で利用価値がある。今、天皇を攻撃してしまうと、かえって日本国民の戦意が高まるかもしれない」。そういって、やめさせたのです。

 4月7日、鈴木内閣が組閣しました。4月12日、ルーズベルトが死去。鈴木さんは、同盟通信の海外向け英語放送でルーズベルトをたたえ...
テキスト全文を読む
(1カ月無料で登録)
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。