●12.マクロ経済成長戦略
12番目に挙げたいのは、「マクロ経済成長戦略」として、日本経済成長のモメンタムをして、日本中を元気付けた二人の人がいます。
一人目は、低姿勢を貫いて「ごもっともでございます。日本は所得倍増いたします」と言っていた池田勇人です。直前の岸信介が非常な権力派で、警職法(警察官職務執行法)を通そうとするなどの姿勢が、大変な不人気でした。その雰囲気を払拭するために、池田首相は「低姿勢」でいったわけで、全て意図的なものでした。
ただ、池田首相発言の根拠は下村治にありました。非常に切れ者の経済学者と評価されています。東京帝国大学出身で大蔵省に入省しますが、大病のため療養し、日銀政策委員を経て、池田首相に請われてブレーンになっています。
この人については、日本中、いや世界中が驚いたことがあります。首相顧問としての発言で、「日本は1961年から71年にかけての10年間、GNP(当時はGDPではなくGNPを使用)成長率平均10.4を達成する」と発表したのです。この発言は世界中で話題になりましたが、結果はというと「10.9」を達成していました。この勢いだから、「日本は、どこまでも行くぞ」という感じになりました。
●池田勇人の所得倍増計画を支えた「下村理論」
「下村理論」は、「ハロッド・モデル」というシンプルな理論が元になっています。経済が成長軌道に乗っているときには、産出係数において設備投資が決定的に働く。では、どの程度設備投資をするとGNPが成長するか。つまり、民間はGNPの中で設備投資比率をどのぐらい見ているか。これは、かけ算をすれば実際の成長が見えてきます。さらに、輸入依存になると外貨が出ていくので、世界経済の伸びに対する輸出の弾力性はどのくらいかを割り出していきます。
この計算式には5つか6つしか変数を使いませんから、封筒の裏にでも書けてしまいます。それを池田首相にたたき込んだのです。池田首相のような政治家でも、これなら分かりますから、「お任せください」と、ガンガン言っていたということです。
安倍首相にも、そういうところがありますね。彼は浜田宏一氏に吹き込まれて、国会で「皆さん、デフレは貨幣減少なんですよ」と言っています。素人があのように断言すると強いので、皆が信じてしまうわけです。それで、また「貨幣を増やせばインフレになるのです。いいですか」などと言っているわけです。「下村理論」よりはだいぶ簡単です。
それはいいとして、「下村理論」通りの成長が日本の敗戦から二十数年で実現したから、世界中は経済の奇跡として注目したわけです。
●13.経済・産業の構造改革と企業戦略
もう一つ、根底的に大きい構造改革がありました。何かといえば、戦後10年ほどの「経済・産業の構造改革と企業戦略」として実現されています。
一つ目は「傾斜生産(方式)」です。これは、マルクス経済学者の有沢広巳先生が九州の炭鉱に行ったときに考案したと言われます。石炭をつくっている現場で「これは何になるんだ?」などと調査し、ここから傾斜生産方式が考えられ、日本は徹底的に石炭産業に力を入れることになります。
その次に鉄鋼産業です。鉄鋼は日本にないですから、世界各国から輸入するために、鉄工所を全て海岸に造ったのです。オーストラリアやカナダでは、鉄鋼を海岸に持ってくるのに大部分のコストをかけています。日本は、船積みされたものを安く引き受けて海岸で加工するから、非常に効率が高い。それで鉄ができたら、今度は造船になる。造船は輸出ラインです。これが、傾斜生産です。
後にレオンティエフが「産出投入係数」として定式化します。レオンティエフの理論構成は、マルキストたちが完全に先取りしていました。こういうことを、学者が言うだけではなく、経済安定本部も取り組んで実現させていたのです。
●金融の整備と低金利政策
次にくるのは金融です。日本は戦争で負けて焼け野原になったので、お金が足りません。そこで、市場金利6パーセントという巨大な「低金利政策」を行います。アメリカが金利4パーセントの高金利を実施しているのに、あえてそうしたのは「元」がないからです。
日本が考えたのは「日本中のお金(家計)を輸出産業に集中しろ」ということでした。ところが、戦前に銀行で1,200ほどもあった日本の金融機関は、戦時中に整理されて50数行になり、各県に一つぐらいしか設置されていません。
そこで、まず農協に金融機能を持たせます。全国に3,600の農協(金融)がつくられ、農村のお金を預かります。使い道のないお金を「組合の方に預けましょう」ということで、回収しました。それから地方銀行、都市銀行、政策銀行(興銀、長銀、不動産銀)という流れになり、その上に日銀があるという体制ができます。これに...