●ポツダム宣言と原爆の兼ね合い
そして、ポツダム宣言です。スティムソンの発言に異を唱える者はいなかったけれど、ある軍事的理由で時期尚早とされていました。その理由は原爆です。グルーは、無条件降伏の緩和について一般的合意を得るのが精いっぱい。あとはスティムソンと陸軍次官のジョン・マックロイが受け持ちました。6月に入って、トルーマンは「対日宣言を来るポツダムでの会議に発すること」を決定しましたが、トルーマンの個人声明ではなく、「米中英3国の共同声明に拡大させる」と言いました。
7月2日午前11時、スティムソンはポツダム宣言草案とその趣旨説明書をスティムソン・メモにしてトルーマンに手渡しました。そこには、現皇室の下で立憲君主制を容認する文章があったのです。ポツダムには、当初は、スティムソンは随行員から外されていたのですが、結局、何とか随行することに成功しました。
スティムソンは原爆開発の責任者です。ところで、スターリンとは、とんでもない人物だったようです。カリスマで交渉上手で、とてもトルーマンの敵ではない。経験は豊富だし、大量虐殺を行っているし、ひどい人のようです。ですから、トルーマンは、ちょっとスターリンの前では、縮んでしまうような感じで、それをスティムソンが横から、その都度、「大統領、原爆の実験は成功なんですよ。成功したんですよ」と3度も4度も報告しました。その言葉でトルーマンは元気づけられて、スターリンに挑むことができたと、こういう構造があったようです。
●スティムソン、原爆投下から京都を救う
そして、スティムソンがトルーマンに対して影響力を及ぼした、2つの要望がありました。1つは、原爆投下の第1目標であった京都を目標から除外する。それから2つ目は、天皇制について日本に配慮を与える。この文章はポツダム宣言の草案からは消されていたのです。
実は5月11日に、ワシントンで目標委員会(Target Committee)があり、第1目標の最適地として京都を選んでいたのです。なぜか。「三方が山に囲まれて爆発効果が高い。京都には勇名高い京都師団があり、爆撃がないということで軍需産業が集積。京都は1,000年の都であり、日本の知的文化の象徴。心理的ショックが大きい。だから、やってしまえ」ということだったのです。
スティムソンは5月31日に、その委員会で反論をします。「日本国民に修復不...