●廃藩置県後の明治国家の建設と岩倉使節団の派遣
明治維新の前は全国で250以上の大名が存在したわけですが、廃藩置県によって藩を廃止して、天皇を中心とする政府が全国全てを統治するという体制が出来上がります。この廃藩置県は、幕末以来活躍してきた、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允といった三人の実力者が結束した上で断行されました。
しかし、そういう統一国家が出来上がった後には、これからどういう国づくりをするのかが模索されるわけです。そしてここで、かなり思い切ったことが行われます。それが岩倉使節団の派遣だったわけです。写真に写っているのは、真ん中にいるのが大使の岩倉具視です。左側が参議の木戸孝允で、一番右側が大久保利通です。そのすぐ横に立っているのが伊藤博文です。
こういった政府の重要人物が長期間、アメリカ、イギリス、その他の欧米列強へと、いわば長期研修旅行に出かけるのです。
この使節団の目的は、まずは欧米各国との親善です。後は、この時期には、幕末に結ばれた条約の期限が来ていました。ただ、条約はこのまま維持しようとします。それはなぜかというと、今はまだ準備不足だということです。そういうことで、今の条約をそのまま継続するように交渉をするのが、2番目の目的でした。
ただし、1番の目的は、欧米列強の近代化がどのように達成されたのか、その基礎というものを知ることでした。これから国家を背負って立つ人物たち、あるいは知識人たちが、欧米列強を実際に見聞して、今後の国づくりの基礎を打ち立てよう、という目的があったのです。
大久保利通は、イギリスに行って、煙突から黒煙が立ち上がり、機械工業が発達していろいろな製品を作っていることに、大きな衝撃を受けました。イギリスはもともと、日本と同じでそれほど豊かな国ではなく、いわば島国でした。しかしながら、今や世界を押さえている。それでは一体、どういう手段でそういうことが可能になったのか。それは、産業を育成して工業を発展させたことです。そこで、日本もそれに続くのだという決心をするわけです。
また、それまでにいろいろな国内改革を主導してきた木戸孝允は、いろいろな改革をやったのですが、欧米列強のような進歩に到達するにはまだまだ落差があると、痛感するのです。
●留守政府による三大改革~地租改正・学制・徴兵令~
他方で、日本に残った有力者たちもいました。その筆頭は、参議である西郷隆盛です。岩倉使節団の渡航による日本の留守を守った政府は、「留守政府」と呼ばれるわけですが、いろいろな改革を断行していきます。西郷隆盛はそれを黙認する、あるいは逆に西郷の存在があるが故に、いろいろな大胆な改革が断行されました。
この留守政府の下で行われた改革の中で、特に中心になったのが、三大改革というものです。具体的には、地租改正、それから学制、それから徴兵令です。
江戸時代には年貢はお米で納められていたわけですが、地租改正では、それまでの年貢に変わって、土地の値打ちに相当する金額で税を納めるようになりました。それから、村単位ではなく、各家を単位にして納税するという制度をつくりました。
学制では、教育制度を統一的に展開して、「村に不学の子無く」と、国民に基礎的な教育を植え付けるという方針を示します。
それから徴兵令です。それまでは軍事的な負担を負うのは武士だけに限られていました。農民は年貢を納めることだけが義務だったからです。それを、これからは軍事的な義務を国民全体が負うべきものとして規定するわけです。しかし、これらはいずれも農民にとっては負担が増えることから、いろいろなところで大きな一揆が起きるという結果をもたらすのです。
●岩倉具視・大久保利通と西郷隆盛との対立
そういう状況の中で、欧米を歴訪してきた岩倉具視たちが日本に戻ってきます。岩倉たちが日本に戻ってくるこの時期には、朝鮮との関係が、新政府が成立して以来、ほとんど膠着したような状態が続いていました。そこで、西郷隆盛はそれを打開するために、自ら朝鮮に渡って直接交渉をやると言い出します。
しかしながら、欧米各国を回って国際政治の難しさを嫌というほど痛感した岩倉具視あるいは大久保利通は、西郷の提案を非常に無謀だと捉えて、そんなに急ぐ必要はないと、西郷の朝鮮派遣をやめさせようとしました。しかし、西郷は、二度にわたる閣議決定がなされているから、後は天皇に報告して一刻も早く自分を朝鮮に派遣するように、という要求をします。しかし、岩倉あるいは大久保は、そういうわけにはいかないと、天皇に対して秘密裏に上奏を行いました。
この結果、天皇は、岩倉の意見を取り入れます。それを踏まえて西郷は、もともと好...