●身体的な徳である礼は新しい人間観の手掛かりとなる
Human Becomingの具体的な例を考えるために、もう一回小野塚先生のこの『経済史』に戻りたいと思います。小野塚先生は結論として非常に面白いことを言っています。「礼などの身体的・美的な徳は、近現代社会では貨幣で計られる単一の徳に取って代わられました」「礼とは状況依存的で、属人的で、多面的な徳でしたが、富の最も抽象的な形態である貨幣が近現代の普遍的な徳となり、単位時間当たりあるいは一人当たりの貨幣という単一の物差しで得が計られているのです」。
その続きはこうです。
「この結果、前近代社会が許容していた多種性・異種性は、近現代にあっては、一つの尺度の中の多様性に変じています」。「時間についても、前近代には、過去から未来まで永遠に続く切れ目のない時間という観念がありましたが、いまでは、刻々と同じ速度で進行して、刻まれ、消費される時間(chronos)が支配的な観念であり、それは『時計(chronograph)』という言葉に端的に表現されています。近現代の時間は計られ、記録されるもの(clock)であり、注視されなければならないもの(watch)として、私たちの生を支配しています」
ということは、来るべき資本主義や資本主義の社会で大事なのは、前近代においてある仕方で洗練されてきた身体的、美的な徳である礼になるのではないでしょうか。この礼というのは大変弱い規範です。近代社会は強力な規範を前提にしていました。それ以前にはキリスト教というより強力な規範がありましたが、近代社会ではそれに代えて、例えば人間の理性に基づく規範が考えられてきました。それに対して身体的、美的なものは周辺化されていきました。なぜならそれは状況依存的で弱いものだからです。
ですが、モノからコトへ、そしてその先へ、ということを考えた場合、もう一度この感情や感覚のような身体性が考えられなければいけないように思います。フーコーが考えた主体としての人間は、身体に関しては大変貧しいものだったでしょう。
この身体はバイオポリティクスによって、ただ単に支配され監視される危険性がありました。しかしわれわれがこれから本当に考えるべきは、そういうものから自由になった身体や感情に基づくような人間の在り方です。その場合にこの「徳」という言葉に注目すべきでしょう。今、「徳」が少し議論をされるようになってきましたが、元々これは得るという「得」と同じ言葉で、「身に付ける」という意味です。ですがこの「身に付ける」とは「所有する」という意味ではなく、生きることで身に付けていく何かです。今風に言うと、一体それはどういうことなのでしょうか。
●Capabilityはより良い生き方につながる人間の徳である
例えばアマルティア・センの議論を紹介します。センの議論の中に、Capability(ケイパビリティ)という概念があります。これは日本語に訳しづらい概念なのですが、あえて言うと次のようなものです。すなわち、「現実の暮らしにおいて、人々が実際に何ができるのか」を問う概念です。これは単なる「できる」ということを意味するアビリティとは違います。
具体的にするために、自転車の例でセンは考えます。自転車を持っているということだけではCapabilityは向上しません。自転車を持っていてもそれに乗ることができなければそれはほとんど無用のものだからです。自転車に乗ることを教えてもらい、自転車に乗ることができたのだとすれば、Capabilityが上がった状態であると考えられるわけです。
ところが世界のある地域では、女性が自転車に乗るということに対し、文化的なバリアがあります。そうすると自転車に乗ることを教えてもらっても、文化的、社会的に乗ることが許容されない場合があります。「できる・Capable」ということが許されるためには、こうした文化的、社会的な条件も変化させなければなりません。それによって初めて、私たちの身体は解放され、自由なものになっていきます。
そうするとCapabilityというのは、自転車を持っているという所有や自転車に乗る方法の先にあるような、より良い生き方につながるような人間の徳であるといえます。
自転車に乗ることは大したことではないと思われるかもしれませんが、これによって人はある種のモビリティを獲得します。自分が住んでいる世界から別の所に向かっていくことができるので、これは非常に大きなことなのです。モビリティという概念を、私は大変重要視しています。移動の自由だけではなく、思考のモビリティ、つまり思考の自由を獲得すると、考えそれ自体が変容していくからです。さらに最終的には、社会がより大きなモビリティを持つことが、...