●「人の資本主義」においては、人間的な人間が重要である
こうしたことを念頭に置くと、人間の再定義ができるのではないかと思っています。来るべき「人の資本主義」において、人間の再定義は絶対に必要です。先ほど述べた通り、資本主義はモノからコトへ、そしてコトから人へ移行していくだろうと思います。今は大体まだ、コトの段階でしょう。この段階では、出来事はパッケージ化されています。それの何が不満かというと、出来事を経験しても、経験した人の在り方はそんなに変わらないからです。経験が増えた状態は、経験が乏しい状態よりも望ましいといえます。しかし本当に大事な価値とは、全く違うCapabilityを身に付け、その人の在り方が変容することです。それは単に自転車に乗れるというようなことではなく、その人の世界に対する関与の仕方が変わる、ということです。私はこれが価値というものの重大な在り方なのではないかと思っています。
そうすると、Human Becomingとは、これまでより人間的になっていくということだと思います。もちろんこの「人間的」というのが問題です。われわれはこれを、主体としての人間のように、あらかじめ前提されたイメージでもはや語ることはできません。そうではなく、より良い形で変わっていく結果として考えることが求められます。内容としてはその都度発明されなければいけないものなのでしょうが、Capabilityを上げたその価値に向かって人間が変容するということが、とても大事なのだろうと思います。
●人間が変容するためには、他者との共変が求められる
ただし、気をつけなければならないのは、「human beingじゃなくてHuman Becomingだ」と言ったところで、放っておいても人間は変容しません。人間が変容するためには、いろいろな情報をその人にあげるような、他の人間が絶対に必要です。
例えば「勉強しなさい」というだけでは得られるものは情報や知識だけで、変容は生じません。ですから、そのプロセスでは人が関与していかなければならないのです。先ほどの自転車の例でも、自転車の乗り方を教える人や自転車に乗って良いのだという社会的状況を整える人が絶対に必要でした。誰か別の目や手が人間の変容には絶対に必要だということです。そうするとHuman BecomingどころかHuman Co-becoming、つまり共に変容していくということに、ある種のチャンスが出てくるのではないかと思います。
●『論語』における仁は、いかに人間的になるかを教えてくれる
たまたまこの前、この人の本をもう一回読み直したのですが、マイケル・ピュエットというハーバード大学の中国哲学を専門とする先生がいます。彼は最近『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(早川書房)という、大変売れそうなタイトルの本を出しました。原題は『道 The Path』です。これはハーバードの学部生に向けた講義が元になっています。彼はこの本の中で、小野塚先生の結論にあった礼の問題に取り組んでいます。弱い規範としての礼を中国の哲学を参考にしながら、もう一度語り直しているのです。
この資料として挙げている右側の文章は『論語』から引いてきました。『論語』では孔子の弟子たちが先生にいろいろと聞くのです。特に「仁」という概念についてです。これは当時としては新しい概念でした。みんな意味が分からないのです。孔子は仁について語りますが、弟子は皆、意味が分からないため、これが一体何であるのかを繰り返し聞きます。
私の考えでは、この仁という概念を一言で言うと、まさにHuman Becoming、つまり「人間が人間的になる」ということです。「人間は人間的に決まっているじゃないか」、と多くの人は思うかもしれません。ところが孔子はそうではなく、放っておいても人間は人間的にはならないと考えます。そこでは何らかの形で他の人が関与することが絶対に必要だと見なされます。そして、この顔淵が問うた問いに、孔子はこう答えます。「自己に打ち克って礼に復帰すること、これが仁なのだ」と。仁というのは人間が人間的になるということなのですが、それは何によってなのかといえば、それは礼という弱い規範を自分のものにすることによってなのだ、と答えるわけです。
●仁や礼という弱い規範が、調和的な世界を構築する
ピュエットは、この仁や礼という弱い規範が、スペシフィックな状況に応じた判断である、と説明します。少しピュエットの著作から読んでみたいと思います。「孔子なら、困っている友人を助けるためにできることは一つしかないと思い出させてくれる。こまやかな感覚を働かせて、友人がなにに本当に困っているのかを理解することだ」。ここでピュ...