●礼の実践の対極にあるのはカントの定言命法である
ピュエットがここで論敵にしているのはイマニュエル・カントで、特に彼の定言命法です。カントは「人間愛からなら嘘をついてもよいという誤った権利に関して」という非常に不思議なテキストを残しているのですが、そこで次のようなことを言っています。「人殺しが友人を追いかけてきて、その友人をかくまった人は嘘をついてもよいのか、という状況でも、あらゆる陳述において正直であるということこそが真正であり、無条件的に命令する理性命令であって、これを必ず守らなければならない」。ですから、人殺しが追いかけてきて、「お前がかくまっただろう」と言っても「かくまった」と言わなければならないのです。当然、友人は殺されます。しかし、これがカントの理論なのです。
ピュエットは、これは絶対におかしいと言います。当然ここでは、カントの言うものとは別の規範が採用されなければならないし、礼が実践されなければいけないと言います。
ここでピュエットのカントに対する批判と、前近代の中国の「礼」や「仁」という概念の可能性を掘り起こしたテキストをご紹介しておきます。礼の世界は仮定法です。つまり「かのように」という世界なのです。実際にそんな世界があるわけではありません。まるでそういう世界があるかのように人間が振る舞うということです。
これは壊れた世界に内在する緊張の中にあるもので、そのままでは断片化されてしまっている世界において、関係の網の目を構築し、洗練し、再び構築するという休みのない作業を指します。決して最初から調和のとれた世界が前提にされているわけではなく、われわれが生きている世界はとても壊れやすく断片化されており、うまくいかないことが多いと考えられています。それをなんとかつなぎあわせていく努力、そこに人間が人間的になっていく際の核心があるのです。このようなことが述べられています。
●仮定法的な世界を生きることで、人間関係はより良くなる
具体例として非常に面白いことが語られています。例えばアメリカ人は、夫婦同士で「愛している」と言います。それに関してピュエットは、「愛している」と口にするとき、本当に愛しているかどうか、そんな野暮なことを聞いたりはしない、と言います。愛しており、愛されている「かのように」振る舞うこと、これこそが大事であると見なされるのです。これが「愛している」と言う意味なのだということです。
また、子どもが何か「ごっこ遊び」をするときのことを考えてみましょう。大人は本気でそのごっご遊びに付き合わないと、子どもに叱られてしまいます。別に子どもはそれがリアルであると思っているわけではありません。でもその「かのように」の仮定法的な世界でちゃんと振る舞うことが、現実の世界にあるインパクトを与え、そのことによって、人間関係はよりましな方向に変わっていきます。そういったことをごっこ遊びを通じて身に付けているのです。
ピュエットの議論は、『論語』の中にある「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす」という、この「かのように」についての文章からきています。「祖先祭祀」というのは非常に重要なのですが、ここでも実際に祖先がいるかどうかが問題なわけではなく、まるでいる「かのように」祀ることが大変重要なのです。それによって私たちの内面に変化が訪れ、私たちの家族や人間関係自体がよりましな方向に変化をしていくということが重要です。
これによって、初めてHuman Becomingが起きます。しかし、それは人一人、単独では起きません。Human Co-becomingという言葉の通り、共にしか人間が人間的になることはあり得ないでしょう。ピュエットの結論は、ありきたりの「かのように」の礼こそ、新しい現実を想像し、長い年月をかけて新しい世界を構築する手段である、というものです。
●人間が人間的になるために、「かのように」の想像力を発揮すべし
「人生は日常にはじまり、日常にとどまる。その日常のなかでのみ、真にすばらしい世界を築きはじめることができる」。これは実は、なかなか大変なことです。非常に細やかに感覚を働かせていかなければなりません。例えば、神や大文字の「理性」を前提にできれば、それに全てを投げかけてしまえば良いので、大変ではないのです。
そうではなく、人間が人間的になっていくためには、より具体的な状況に密接し、この現実に張り付いているが「かのように」としか言えないような世界に対する想像力を、存分に発揮していくことが大事であると考えられるのです。そ...