●新しい社会的想像力を考える上で、孔子はヒントにすぎない
質問 モノやコトの時代の後を問題にしているのに、モノが豊かでなかった前近代の孔子の議論を参照しても、うまくいかないのではないでしょうか。
中島 私は別に、孔子を今よみがえらせようと思っているわけではありません。そんなことは不可能ですので。ただヒントにしたいのは、孔子の登場した時代は、古代中国社会が爆発的に経済発展していった時代でした。それまでの流通が制限されていた時代から大きく広がっていきました。そういった時代に登場して、全く新しい社会的想像力を彼は導入しようとしたのです。
その一つの例として、「仁」という言葉を取り上げました。今の時代では、別に仁でなくても構わないのです。今の時代も、爆発的に経済の在り方が変容して、発展しています。私はその中で道徳を掲げればうまくいくと思っているわけではありません。そんなことは多分できないでしょう。
例えば、ピュエットのことを今日は例に取り上げましたが、別に彼は道徳の説教師ではありません。そうではなく、われわれの在り方を問い直すことを日常の中にどう組み込んでいくのか、ということを考えているのです。そうしないとわれわれは、習慣、ハビトゥスに流されていくだけです。それに対して少し批判的な距離を取り、ピュエットの言葉で言うと「この世界に張り付いているようなもう一つの世界」に対する想像力を利用することで、この世界をもう少しましなものにしていこう、という議論なのです。それを私たちの時代にできるかどうか、ということなのです。
国民道徳という形で上から道徳を押し付けていた戦前の日本の経験を考えると、道徳の押し付けはやるべきではありませんし、不可能だとも思います。そんな上から降ってくるような道徳は機能しません。日常の在り方を少しでも変えていくことで、よりましな方向に変わり、そこにテクノロジーや資本主義を関与させるという形以外にはないのではないか、ということです。
●孔子の経験を現代風に考え直すことが重要である
中島 幸か不幸か、戦後日本は、中国哲学的なものを全部捨て去っていきました。今若い人に論語について語っても全く響きません。もう私は、そういうものだと思っていて、復古的な仕方で「論語も大事だよね」と言う必要はないと思っています。ただ、今申し上げたように、孔子がやったことを今の文脈に置いてみると何が見えてくるか、ということが重要です。資本主義はたかだか数百年の経験にすぎませんが、われわれはまだそれを上手に飼いならすことができていません。孔子の時代からもせいぜい2000年ちょっとです。
ですから、どこまで使えるかは分かりませんが、この経験を今風に考え直すというのは悪くはないだろう、と思います。われわれの新しい言葉や概念が必要とされているのです。ですから、たまたまHuman Co-Becomingという造語を使いましたが、もう少しましな言葉をそれぞれ私たちが発明していけば良いのではないかと思っています。
●中国の経営者も新しい資本主義を考えるために古典を参照している
質問 中国では稲盛和夫氏の著作が一番読まれているそうです。新しい資本主義が展開していることと、何か関連しているのでしょうか。
中島 全くおっしゃる通りで、稲盛和夫氏は典型的ですが、彼はマネジメントの背景でスピリチュアリティーの問題の探求を真摯になさっています。私は一度対談をさせていただいたのですが、本当にいろいろな本を読まれてお考えになっているのだ、と少しびっくりしました。ですが、そのお考えになっている意味を私たちが本当に理解しているのかというと、案外そうではありません。「アメーバ経営」のようなマネジメントの方法論として稲盛さんの議論を理解しているにすぎないと思います。実際にはそれにとどまらないのであって、中国の今の経営者たちも、実はそこをつかんで経営をしているのだろうと思います。
10年ほど前に私は中国の書院というところに行きました。書院は前近代の中国の民間の大学です。これが今、復活しているのです。近代中国で書院から大学に変わるのですが、そこでは近代的な教育をしなければなりません。ところが、最近は大学のあるところに書院が復活していて、そこで非常に面白い教育を経営者向けにやるのです。そこには若い経営者がたくさん集っていたのですが、その人たちは復古的、あるいはノスタルジー的に中国の古典を勉強しているわけではありません。今日私が申し上げたような仕方で、今その精神を生きるとすれば何ができるのだろうということを真剣に問うているわけです。
なぜなら、それが価値を生み出すことに関わると分かっているからでしょう。繰り返しになりますが、価値とは生きるということに付与されるので、何か...