●松下幸之助の不幸
執行 松下幸之助は僕に言わせるとかわいそうです。頭が良過ぎたからです。成功のしすぎです。成功はしすぎたら、身動きが取れなくなるのです。かわいそうでした。
―― 成功しすぎて、身動きがとれなくなってしまうのですね。
執行 身動きがとれなくなったのが、松下幸之助の晩年です。僕は身動きがとれる範囲なので、大暴れして好きにやっています。まだできる範囲にいる訳です。
松下幸之助のレベルになると実業家といっても国家の「看板」ですから、身動きがとれないでしょう。だから僕は自分の手が届かなくなるところはやりません。宣伝やメディアなども、なるべく抑えています。自分の責任の範囲の終わるところでやっています。
―― 松下幸之助の晩年は、執行社長が『悲願へ―松下幸之助と現代―』(PHP研究所)で書いている通りだと思います。家族の中で孤独でした。崇高さを求めていくと最後には理解されないからで、それでも「良し」としていくから、その覚悟があるから、崇高さを求められる訳ですね。
執行 もちろんです。崇高を求めるのに、一番重要なことは名誉を捨てる、金銭を捨てる、幸福を捨てる、そういうことです。それは全ての人に言えます。これは自分が捨てない限りは出来ません。もちろん僕も捨てています。皆にそう宣言もしています。
人間は弱いですから、そのためにそう宣言しています。だから僕の本でも今の意見が書いてあります。僕の本の読者のファンが毎週、毎日遊びに来るけれど、本に書いてあることが一行でも僕自身の生活と人生と違ったら、その場で腹を切る、とみんなに言っています。そのくらい言わないと人間ゆるんでしまいます。
崇高というのはそこまでして求めなければなりません。緊張感というか、自分が真の人間だという誇りです。今度出す松下幸之助の思想を語った『悲願へ―松下幸之助と現代―』(PHP研究所)という本では、幸之助が人間であることの「誇り」を書きました。つまり、人間とはどういうものかということです。僕もそう思っているので、全部分かります。
―― 松下幸之助と岩波茂雄はまさにこの系譜は同じなのですね。
執行 あのような価値観の高いことをやった人は同じです。そして僕もその一員になろうとしています。
たぶん、石門心学などのあの当時の大阪商人の徹底的な洗礼を受けています。商売の洗礼を受けているので、商売道徳が血に染み込んでいたと思う。僕は戦後人なので、そこまでは縛られていません。
松下幸之助が丁稚だったことは、かわいそうなところです。だからあまりにも真面目です。あの当時の大阪商人はすごいです。僕も何人か知っていますが、やっぱり丁稚のころから鞭で仕込まれます。血の底に染み付いています。武士の家だと父親を見ると震え上がるというか、父親が90歳で死にそうになっても、父親をみると震え上がりました。今で言うトラウマです。
だから、皆にサービス、皆に幸福になってほしい、皆に成功して欲しい、皆にわかりやすい言葉をとらないと駄目、皆に好かれなければ駄目、それでもって苦しんでいるのです。その苦しみが僕には伝わって来ます。松下幸之助は「良い人」ではないのに、良い人のようにしか振る舞えなかったのです。
●良い人の定義
執行 良い人などは結局、何の役にも立たないのです。ただ、本人がみんなに良い人だと思われているだけです。どういう人を良い人と呼ぶかという定義になるが、「良い人とは、その人自身が評価を受ける」ということです。だから「他人の役に立たない」ということです。誰かのためになるということは、自分が自分の評価を落としてでもやる必要がある。それをやってくれるのが「ド変人」です。
(変わり者は)他人のために何かをやってくれる、ということです。でも世の中の良い人、常識のある人、立派な人、と言われている人というのは、要は自分が評価を受けてしまうタイプです。それでもいいが、人の役には立ちません。
―― ましてや世の中のためには役に立ちません。
執行 国のためだって、戦争になれば国のために命を捨てる人が重要ということです。命を捨てるというのは、利口な人にはできないのです。
●魂の触れ合い
執行 松下幸之助には僕は全く会ったことはないですが、魂が同化しているので、その心が分かると思っているのです。乃木希典なども同じですね。
また僕は万葉集が好きで、小学生のときから万葉集をずっと読んできました。奈良の古代人が書いたものですが、僕は辞書を引いたことが一切ありません。同じ日本人が話した言葉だから、当時の人は辞書のない時代だから、当時の人の感性をそのまま受けようと思っていました。学問的には間違っていることはあるかもしれません。それでも間違ったまま覚えるということを押し通すと、...