●松下幸之助の崇高さ
執行 僕が松下幸之助についての講演の中でも話をしていますが、書物を読んではっきり分かるのは、「松下幸之助が求めているものは崇高」だということです。これが周りの人には誰にも今は分かりません。だから、松下幸之助は不幸だったと書いているが、それは孤独さから来るのだと思います。なぜかというと、それは崇高というものを求めたからなのです。そこが分からないと松下幸之助に学んでもう一回誰かが似たようなことをすることはできません。似たようなことをするということは松下幸之助を継ぐということです。
本当はそれを松下政経塾がやる必要があります。松下幸之助の言うことはいくら聞いても駄目です。だから松下幸之助がやろうとしたことを継ぐということは、松下幸之助が求めた崇高さを継ぐ必要があるということです。
崇高さとは、一番分かりやすい例は、原始キリスト教です。簡単に言うと、自分の命よりも大切なものは何か、ということです。命が一番なら、動物となります。命よりも大切なものが肉体よりも大切なものがあるから人間なのだ、ということを思い出して欲しいです。
アランという僕の好きなフランスの哲学者が人間の魂というものを定義して、「魂とは、肉体を拒絶する何ものかである」と言っています。それが魂なのです。僕はこの定義が好きで、これこそが人間だと言っています。魂を持っているのが人間だということは、魂が人間の本体です。肉体を拒絶する何ものか、とはどういう意味かということです。
一番簡単な例は、人間というのは動物の体をもっているから、自己生存本能を持っていて、危険なことは誰でも怖い。戦争に行って、弾が飛んできたら、怖いのです。でも、アランが言っている魂とは、その肉体よりも大切なもの、肉体を捨ててもやらなくてはならないことを魂と言っています。
だから愛国心で戦争に行くというのはそのような意味です。戦争に行って勇敢な行為ができるということは、やはり国を思う気持ちが、自分の命よりも大切だ、ということです。これが肉体を拒絶する何ものかです。だから国家のために死ねるということや、そのようなことが魂である、ということをアランは定義しています。もちろん国家以外のものでもいいのです。これは哲学者の定義では史上最高の定義でしょう。現代では、その魂が失われているので、理屈を言って救われる...