●『海防八策』を書いた佐久間象山の危機感
―― 佐久間象山はものすごい弟子を育てたし、感化力もあったのですね。
田口 そうなんです。彼は本質を非常によく心得ていたので、短期間で一番重要なこと、つまり核となるべきものを教えることができたのでしょう。
そして、彼はなんでも自分でやりました。そこから、「これはこうやって教えた方が良い」といった教え方を学びました。自分が習得することで、習得の方法が分かったのです。自分でやっているからです。
―― そこは苦労して見つけたからでしょう。
田口 だから非常に生きた教育をやっていたのです。そういうところがすごいのです。その根本には、このままでは日本が西洋列強に利用されてしまい、悲惨な状況になってしまうという危機感があったということです。そのため、1840~1842年のアヘン戦争の時に、彼は『海防八策』という意見書を建白しました。ペリーが来る10年ほど前のことです。彼はそのことを予測して、「このように(黒船が)来る。だから、こうしたことをしなければダメなんだ」と言って建策をしたのです。
さらに彼は、その後も相変わらず続く危機感について、川路聖謨などに「ここはこうやらなきゃいけない」などと言って、『急務十条』などをどんどん建策していきました。これらは、明治近代国家が範として求めたものでした。
1904年に日露戦争があり、1905年にはポーツマス条約が結ばれましたが、日露戦争はなぜ勝ったのかといえば、海軍です。海軍がどうあるべきなのかということについては、日露戦争よりもかなり前、佐久間が「こうあるべきだ」というものを建策していたのです。
●「先憂後楽」の資質を持っている人間がもっと出てこないと駄目だ
田口 私が考えている佐久間から学ばなければいけない一番のキーワードは、「先憂後楽」です。
「先憂」とは、「民に先んじて憂う」ということです。政治に携わる人間や、国家を運営する人間にとっての一番大切な資質は、「先憂」にある、と。要するに、誰もがまだ心配しないことを心配し、ちゃんと手を打っておくことが重要だというのです。さらに「後楽」ですが、後楽園の「後楽」です。これは、民が「良かった、良かった、もう安心だ」といっても安心せず、その後もしばらく注意深く見て、「もう、これで大丈夫だな」と思ってから、1人楽しむべきだという考え方です。
―― 1人で楽しむのですね。
田口 そうです。その頃にはみんな、起きたことはもう忘れています。過去のことだと思ったくらいのときにようやく、「大丈夫だ」と思って、自分で楽しむのです。
そうした「先憂後楽」の資質を持っている人間が、もっと出てこないと駄目なのです。そういう人はたくさんいると思います。日本人は優秀ですから。でも、それが自覚されていないのではしょうがありません。このことを自覚してほしいという意味でも、私はこの『佐久間象山に学ぶ大転換期の生き方』(致知出版社)という本を書きました。
―― 先生がよく言われる、自ら覚悟を決めるという「自覚」ですね。
田口 はい。自覚なくしては、何事もやはりうまくいきません。自覚をしていかなきゃならないのです。その意味で私の本は、「自覚の書」といっても良いでしょう。
●佐久間象山の教育理念を育んだ下曽根金三郎からの学び
―― つまり佐久間象山の持っていたこの危機感は、『海防八策』も書きましたが、これから起きるであろうことを見えていたからなんですね。アヘン戦争と同じような形のことが、放っておけば必ず起こる、と。そこでその前に、日本的精神の下に、西洋の技術をもう1回取り入れてしまわないといけないと考えた、と。
田口 そうなのです。
―― そこがすごいですね。そうして塾も開くし、自分で原書から学んで、自ら実践した。かつ、それを分かりやすい形で弟子に伝えていった、と。
田口 そうです。彼は修行の時代に、江川太郎左衛門のところに行きました。しかし江川には権威主義的な考え方があり、なかなか教えてもらえませんでした。そもそも学ばせてくれなかったのです。「大砲は重いのだ」と言って、重い荷物を背負って山の上を走る訓練ばかりさせられました。砲兵は、重い大砲を担いでいかなければならないので、必要なのは体力だと江川は言ったのです。
佐久間は「いや、私は大砲のことが知りたい。大砲の勉強をしたいんだ」と言います。それでも江川は、「いや、そうじゃない。大砲を学ぶ前に、体力をつけなきゃいけない」という。こうしたやりとりの末、彼はもう諦めて、江川と並び称される大砲の権威であった下曽根金三郎という人物のところに行きました。下曽根は、もうすごくオープンで、どんどん何でも教えてくれるし、何だってやらせてくれ、何でも読ませてくれました。そこで佐久間は救...