●新しいお札の顔、渋沢栄一の生い立ち
今回から「渋沢栄一と『論語』」についての講義を行います。渋沢栄一がお札の顔になるという発表があったせいか、「渋沢についての話を」というリクエストが非常に多くなりました。1年間、いろいろなところへ行って渋沢栄一についてお話をする。話しながら、こちらもこれまでに足りなかったところをどんどんカバーしていくうち、1年を終わってみるとすっかり渋沢栄一通になってきたようです。
今回もいろんなことを皆さんにお伝えしたいという思いは山々でありますが、何をお伝えしたらいいのかということですね。これはこの講座の趣旨でもありますが、偉人はいかにして古典を読んで、偉人たり得たかということを皆さんにお伝えするというところでありますので、渋沢の思想形成において、『論語』がいかに寄与したかという話にどうしてもなっていきます。それをよく知っていただくと、皆さんも『論語』をどう読んだらいいのか、つまり自分をつくっていく、そういうときにいかに古典を資するかということが非常に重要になってくる、そのコツがよく分かっていただけるんじゃないかと思うわけです。
渋沢についてのさまざまな知識がまったくないという方もおられると思いますので、資料の中に渋沢の一生というものをずっと示しました。それを見ていただくといいと思います。
渋沢は天保11年、なんと1840年に生まれました。「なんと」と言ったのは、これがアヘン戦争の年にあたるからです。彼が新しい時代の申し子だったことが象徴されているような年号の2月13日、血洗島という迫力ある名の場所で誕生しています。
彼の出生について注目すべきなのは、農民として生まれてきたことです。江戸時代の農民というと、食うや食わずで、極貧の生活と重労働に耐えたイメージがあります。反対に搾取する側の地主は、農民をぎゅうぎゅうこき使って裕福になった。われわれにはこういう既成概念がありがちですが、これをまったく変えざるを得ないのが、渋沢の育った家の農業です。
私の考えでは「農業経営者」と呼んだほうが近いのではないかと思います。後々の話にも関係するので、少しここを細かく申し上げておくと、普通、農家は米を作るのが主業になりますが、渋沢の家はそういう農業ではなく、作って売る商品を二つ持っていました。
●日本の近代化を支えた「絹」づくり
一つは、絹です。絹は、渋沢の生まれたこの頃から幕末・明治にかけて、最大の輸出商品として、日本を支える産業になっていきました。そういう意味で、非常に価値のある商品を扱っていたわけです。
絹というのはご承知の通り、農家の屋根裏部屋で蚕を育ててつくられます。なぜ屋根裏部屋で行うのかというと、広大な地所が必要なわけではないからで、一緒に暮らしていることで、いつも管理に目が行き届くようになるという利点もあったようです。
例えば大きな台風があったりすると、農作物はひとたまりもありません。当時は洪水なども多かったでしょう。ところが、自分の家の屋根裏で育てているので、(そういう意味では)とても安全です。蚕を育てるのには非常な忍耐が重要ですし、いろいろな技術もそこに加味せざるを得ないのだと思います。
そういうものを扱ったということは、非常に高価であり利幅も大きい商品を、渋沢家はまず一つ持っていたということです。
●「藍づくり」に地の利を得ていた
渋沢家ではさらに、絹を上回るような効果のある商品を、もう一つ扱っていました。これが藍です。藍というのは糸を強化する、製品を強化するものとして非常に重要だと見なされていました。
それほどいいものであれば、なぜ皆そちらに転換しないのかというと、藍作りには非常にさまざまな技術が伴うからです。また、地域特性としても、藍作りに適う・適わないということがあります。適性として最大のポイントは、肥料がすぐ手に入るかどうか。豊富に肥料をまくことができないと、いい藍はできないのです。
渋沢の生まれた血洗島は、徳川家康が利根川を付け替えた(利根川東遷)場所です。関東地方をいわば分断するようにすっと下へ流れ、江戸湾へ入って行ってしまったのがもともとの流れですが、これでは大農地が得られないといって、家康がまっすぐにしたわけです。
まっすぐにした結果、利根川は江戸湾ではなく銚子方面へ注ぐように変わりました。この利根川の付け替えによって、関東平野の広大な農地が確保されてきたわけです。
もう一つ素晴らしいのは、利根川沿いの農家には、銚子で揚がるイワシが「干鰯(ほしか)」とされていたことです。当時はイワシが嫌になるほど獲れていたので、食料にするだけでなく、通りや空き地にイワシを撒いて干し、「干鰯」という...