●概念自身が旅をすることによって普遍化していくことが必要
―― この本(『全体主義の克服』)の中で、もう一つ非常に興味深いのが、新しい普遍的な価値をどうつくっていくかという議論です。
先ほど先生が問題提起したように、一つの考えが全体として全てを包含するということではなく、もっと偶然や他者の知恵などが加われるように開いていくほうがいいというときに、いかにその考え方を世界に普遍的なものとして、哲学的に打ち立てていくかという議論を、いろいろな方向からマルクス・ガブリエルさんとしています。
今の普遍的な価値というと、一般的には例えば自由、平等、人権で、今のところ、これが世界では普遍的な価値といわれています。ただ、この本で先生が挙げているのですが、実はヨーロッパでこの概念が出始めた時代は植民地がありました。
実際にそれらの概念を全世界で広めていけるのかというと、ヨーロッパにはヨーロッパの抵抗感があり、いってみれば、当時は白人だけのものでした。しかし、それがやがてだんだんと世界に広がっていったというイメージです。その部分の問題もお話しになっているのですが、一つの概念が普遍化していくというのは、どういうことなのでしょうか。
中島 今おっしゃったように、自由や平等、人権にしても、誕生した瞬間に普遍的であったわけではないと思います。それはある普遍化可能なものとして登場したことは確かですが、でも、当時のヨーロッパで考えていくと、ヨーロッパの外には、それは適用されていませんでした。そのため、いったんヨーロッパの外に概念が出る必要がどうしてもあったのだと思います。出ることによって、ヨーロッパ自身が揺さぶられて、鍛え直されていくと思います。
そういう概念が世界的に旅をするといいますか、循環して鍛えられていく。そういう中で、自由や平等、人権が鍛えられていったのだと思います。だから、フランス革命のときの人権の概念と、世界人権宣言の人権の概念は、もう別物ですよね。
―― 世界人権宣言は第二次世界大戦後、すぐのものですね。
中島 成人男性だけに認められていた人権概念だと具合が悪いわけです。それがどうしても万人に開かれていかなければいけませんでした。そのため、いきなり普遍的な概念があるというより、概念自身が旅をすることによって、普遍化していくことがどうしても必要だと思います。
もちろんその当時の非ヨーロッパ圏では、ヨーロッパ的な価値が、上から与えられたイメージだったと思います。そのため、それに対する反発も当然あったと思いますし、今でもヨーロッパ的なものに対抗して、自前で自分たちの概念を立てる意見も当然あります。
私は立てても良いと思いますが、それがやはり普遍的なものに向かっていかないといけない、それが自分たちだけのものだとしょうがない気がします。やはり普遍化の努力、そして普遍化の試練に概念がさらされていくことが、とても大事なのではないかと思います。
●概念は、経験を通じて実践的に普遍化されていく
―― 普遍化という部分について、本の中でマルクス・ガブリエルさんがとても面白い例え話をされています。例えばダンスは当然個々にたくさんあり、「これがもともとのダンス」、「これこそがダンス」というものがあるわけではなくて、それぞれに(特徴、良さなどが)ある。ただ、その共通点を探そうと思うなら、一緒に踊ってみないと分からないだろう。どちらが良い・悪いではなく、それは踊りなので、体を動かすという共通点があるにしても、それがどういうものなのかは、実際に一緒に踊ってみる必要がある。そういった話をしています。これは非常に面白いイメージの話だと思いました。普遍化とはそういうものなのでしょうか。
中島 やはりプラトン的なイデアのように、原ダンスがあって、それに合っていないダンスはダメなダンスなのか、あるいはダンスではないのかというように考えないほうがいいと思います。いろいろなダンスがあっても良いのです。一緒に踊ってみて、踊れたら、それはダンスです。その中で上手なダンスと上手ではないダンスが分かります。踊ってみれば、「ああ、上手ではなかったね」、あるいは「すごく上手だったね」が分かります。それは自ずと分かることだと思うのです。そういう経験を通過していく部分が、やはりどうしても必要なのかなという気がします。だから単に概念の空中戦をやっているのではなく、どこか身体化されていく面が必要ではないかと思います。
―― ある意味で、それはこのご本のことです。ドイツの哲学者でいらっしゃるマルクス・ガブリエルさんと中島先生が、全然違うことを踊りを…。
中島 そうですね。二人でダンスを踊ってみたことになります。上手かどうかは読者の皆さんに判断していただいていいと思...